和気町は人口15,075人。平成18(2006)年3月1日和気郡佐伯町と和気町が合併してできた。
岡山県の南東部に位置し、町の中央やや西寄りを南北に吉井川が流れ、南部で東方から流下してきた日笠川と合流している。
舟改番所や波止場が置かれ、高瀬舟や渡し船の行き交う水上交通の要衝として古来より栄えてきた。
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Google Mapー岡山県備前地域のホテル・旅館案内地図(岡山市を除く)ー
和気清麻呂公をはじめ和気氏の先祖を祀った和気神社のすぐ前にあり、遺跡出土資料、生活民具・古文書を収蔵し、和気清麻呂をはじめとした郷土ゆかりの先人、教育、文化に関する資料を展示している。
備前国和気郡より出で、奈良時代から平安時代にかけて中央政界で重きをなし、長岡遷都や平安遷都に尽力した和気清麻呂公をはじめ和気氏の先祖を祀った神社。狛犬は全国的に珍しい「狛イノシシ」。
昔この藤野の地は藤が咲き乱れる原野であったと伝えられている。和気清麻呂公の生誕1250年を記念して藤公園を整備。沖縄を除く全国(北海道から鹿児島まで)から収集した有名な藤、約100種・150本を植栽。
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天平5(733)年に生れ、桓武天皇の信任を得て中央で活躍した和気清麻呂を祀る和気神社と和気清麻呂の生誕1250年を記念して造られた藤公園、「岡山後楽園、閑谷学校や新田開発」など江戸時代初期に岡山藩主池田家の郡代として数々の土木事業を成し遂げた津田永忠墓所、戦国時代の山城天神山城跡、岡山県自然保護センターなど豊かな自然と古い歴史に恵まれた地域。
吉井川の東側には、岩山の様子がアルプスに似ていることから和気アルプスと呼ばれる登山家に人気の山があり、県外からも多くの愛好家が訪れている。吉井川寄りの山裾には和気鵜飼谷温泉がある。
奈良時代の天平勝宝年間(749~757)に、孝謙天皇の勅願で報恩大師によって備前八十八ヶ寺の十二番目の寺として創建された。鎌倉時代の最盛期には56もの院坊を擁していたと伝えられる。
和気氏の氏神様として平安時代後期、天永3(1112)年に西久保方の上山上に建立。南北朝時代の建武4(1337)年、足利氏に従い九州で戦い戦利を得た、赤松則祐(播磨守護職)によって現在地に移された。
アルカリ単純温泉。湯温は岡山県南部では珍しく40℃の高温。イオウ分を含み神経痛、関節痛、筋肉痛等に効果があることから、ケア活動を始め幅広く利用されている。研修宿泊施設はホテル風で安価。
和気町-町役場 TEL 0869-93-1121 〒709-0495 岡山県和気郡和気町尺所555
人口 14,564人 うち65歳以上人口 5,551人(38.1%) 世帯数 6,228世帯 総面積 144.21㎢
主な見所
和気町歴史民俗資料館、和気神社、芳嵐園、和気町藤公園、照光山安養寺、由加神社、和気鵜飼谷温泉、県立自然保護センター、津田永忠墓所、奴久谷の滝、矢田部六人衆、天神山城跡、新田原井堰、和気町田原井堰資料館、和気アルプス、北曽根城跡、太王山本久寺、学び館サエスタ、宮原すもも園、和気美しい森、和気氏政庁跡、苦木の瀬
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祭り・イベント等-藤まつり(5月)、和文字焼まつり(8月)、りんご祭(9月)、タンチョウフェスタ(10月)、ふるさとまつり(11月)、ロードレース(11月)、ふれあいウォーキング(11月)、
名物・特産-すもも、ぶどう、りんご、鯉のぼり、夏秋ナス、白ネギ、
町の木-さくら、町の花-藤、町の鳥ータンチョウ
沿革
平成18(2006)年 3月 1日 和気郡佐伯町、和気町が合併
江戸時代に田原井堰が造られ、約300年間下流の農地を潤してきた。昭和40年代になり用水需要が増加、昭和47年より田原用水の改修、昭和54年以降は国による新田原井堰の構築が行われてきた。
江戸時代に築いた「田原井堰」が、新井堰完成で撤去された為築造以来300年の歴史とわが国有数の規模と構造を誇っていた「田原井堰」・「田原用水」の関係史料を保存し、後世に伝える目的で昭和61年完成。
戦国武将の浦上宗景によって天文元(1532)年に築城された連郭式城跡で山麓には屋敷跡も残っている。城跡は三段と馬場からなっていて、山頂には本丸の礎石が現存している。
岡山県自然保護センターは、吉井川中流県立自然公園の一角にある自然観察のフィールド。森林・草原・湿原など、自然とのふれあいを通して自然保護の心が学べる。タンチョウの飼育も行われている。
和気富士~神ノ上山にかけての標高170mから300mの連峰のこと。縦走ができ尾根沿いの縦走路からは和気の町並みを楽しめる。巨大なカルデラの中央丘の一部を構成していたとみられている。
東から流れて来た金剛川が、北から流れて来た吉井川に合流する地点北西にある、標高172mの丘陵に造られた城。戦国末期に備前・美作・西播に権勢を誇った浦上宗景の家臣、明石景行が開いた。
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この滝は、津田永忠が、別邸から正面に見える山腹の岩場に、十谷池を水源として造ったと伝わるもの。農業用水が山腹の断崖を流れ落ちて滝を造るが、池の水抜きをする時以外は見ることができない。
宝永4(1707)年68才で亡くなった岡山藩池田家の重臣津田永忠の墓。奴久谷の別邸近くのこの地に葬られた。永忠の他に永忠の妻、永忠の父貞永夫妻、貞永の後妻、永忠の長男、長女の7人の墓が同場所にある。
桃山期の天正11年、宇喜多忠家とその一族によって現在地の北方の大王山山上に建てられ、慶安4年に現在地へ移築された本堂と、境内にある、五重と九重の二基の石塔が、岡山県の重要文化財に指定されている。