02/29/2020 / 最終更新日時 : 02/29/2020 桃太郎 史跡 長島愛生園 目白寮跡 ここにはかって明石海人が入居していた目白寮があった。明石海人は1932年(昭和7年)、明石楽生病院の閉鎖に伴って愛生園へ入園、当初は精神失調の状態であったが、それが回復するや短歌に詩に散文に多彩で密度のある創作を始めた。
02/29/2020 / 最終更新日時 : 02/29/2020 桃太郎 史跡 長島愛生園 犠霊碑 この儀霊碑は、入所者の給食に供給された家畜の霊を慰めるために建てられたもので、碑には「皇紀二千六百五年」との記載があることから1945年(昭和20年)の建造と思われる。養豚事業は、1931年(昭和6年)の開園時より始められたが入所者の高齢化で運営が難しくなり、1985年(昭和60年)に閉鎖。
02/28/2020 / 最終更新日時 : 02/29/2020 桃太郎 史跡 長島愛生園 監房跡 1931年(昭和6年)~1953年(昭和28年)、外壁:高さ3メートル、部屋:独房8室(監禁室板間4.5畳6室、謹慎室畳敷き4.5畳2室)監房は開園と同時に建設され、風紀を乱した者、逃走又は逃走しようとした者、秩序を害し又は害そうとした者を中心に収監した。当時、逃走(無断外出)で収監された者が一番多かった。
02/24/2020 / 最終更新日時 : 02/28/2020 桃太郎 史跡 長島愛生園 収容所 この建物ー収容所ーは長島愛生園に隔離された入所者が、体の検診、病歴調査、その他の入所手続きを受ける為に最初の約1週間を過ごす場所で、1930年(昭和5年)9月の建設。当初は収容所と呼ばれていたが昭和27年以降は回春寮と呼ばれた。
02/23/2020 / 最終更新日時 : 02/28/2020 桃太郎 史跡 収容桟橋 1931年(昭和6年)から昭和30年代半ばにかけて、長島愛生園に収容される人の多くは、故郷に別れを告げると一般の乗客とは区別された患者専用列車で岡山駅まで運ばれた後、虫明港までは護送車と呼ばれた車で移送、この内白間(うちしらま)から上陸した。
02/23/2020 / 最終更新日時 : 02/29/2020 桃太郎 博物館・資料館 国立療養所長島愛生園 長島愛生園は、岡山県瀬戸内市沖の瀬戸内海に浮かぶ島長島(瀬戸内市虫明)に位置する国立ハンセン病療養所で、1930年に日本初の国立らい療養所として発足したのが始まり。当時、感染症であるハンセン病はその有効な治療法が無かった為、国の施策としてこのような島に設けられた療養所への隔離が行われた。
01/04/2020 / 最終更新日時 : 01/20/2020 桃太郎 ジオサイト候補地 苦木の瀬ー河(高)ノ瀬ー 苦木の瀬は、吉井川を高瀬舟で往来していた時代の難所で別名河ノ瀬(こうのせ)とも呼ばれていた所で、この場所を安全に下るため、明治14(1881)年から16年の歳月をかけて長さ116メートル、幅10メートル程度の舟通しを築いた石堤跡がある。
07/15/2018 / 最終更新日時 : 07/15/2018 桃太郎 史跡 上東遺跡 およそ1700年~2000年前の弥生時代後期から古墳時代前期を中心とする集落跡。多くの竪穴式住居のほか製塩炉や波止場状遺構を確認。貨泉や卜骨、骨鏃、桃核、絵画土器が出土。ここは波止場状遺構が検出された場所で、この遺構は地 […]
07/09/2018 / 最終更新日時 : 02/22/2021 桃太郎 史跡 細谷川 真かねふく きびの中山 おひにせる ほそたに川の おとのさやけさ 古今和歌集ー岡山市の西部、旧山陽道の南に座した吉備の中山の中央付近を流れ下る小さな川、備前、備中の境界に位置し、藤原成親の墓や福田海本部、少し西には吉備津神社、東には吉備津彦神社が鎮座している。
06/26/2018 / 最終更新日時 : 06/27/2018 桃太郎 史跡 牟佐大塚古墳 牟佐大塚古墳は、総社市こうもり塚、倉敷市箭田大塚と並んで岡山県下三大巨石墳の一つに数えられている。墳丘の規模は直径約30m、高さ約8.5m、南側には横穴式石室の羨道部が開口しており、石室内に入ることが出来る。石室は花崗岩の巨石を用いた両袖式で、その規模は全国でも十指にはいる。羨道が玄室の約二倍の長さがあり、入口に向かって開く形状となっている。
06/12/2018 / 最終更新日時 : 06/12/2018 桃太郎 史跡 金子石塔塚古墳 Sponsored Link 金子石塔塚古墳は奥場古墳群の一角にある円墳で、古墳時代後期(6世紀後半)の築造と考えられており、奥場2号墳とも呼ばれている。石棺は家の形をしており、材質は井原市浪形で産出する貝殻石灰岩(浪形 […]
06/11/2018 / 最終更新日時 : 07/07/2018 桃太郎 史跡 秦大ぐろ古墳 総社市秦のサントピア岡山総社敷地内も含めてその周辺に点在する金子古墳群の一つ。サントピア岡山総社南部の山林にある4世紀前半に築造されたと推測される前方後円墳で、金子10号墳とも呼ばれている。前方部を北西に向けた前方後円墳で全長は約61mと、サントピア北方尾根にある前方後方墳の一丁ぐろ1号墳の約70m、茶臼嶽古墳の約65mに次ぐ大きさ。
06/08/2018 / 最終更新日時 : 06/08/2018 桃太郎 史跡 茶臼嶽古墳 総社市秦の西部にある城山からサントピア岡山総社方面に延びる尾根の内、茶臼嶽に位置する全長約65m、幅38mの前方後方墳(大きさについては諸説あり)。出土した土器などから3世紀後半頃に造られたものと推測されている。地元の人から古墳ではないかとの指摘により発掘調査の結果判明。
06/08/2018 / 最終更新日時 : 06/08/2018 桃太郎 史跡 一丁ぐろ古墳群 一丁ぐろ古墳群は、総社市秦の西側に横たわる城山の南嶺に沿って4世紀前半から7世紀後半にかけて断続的に築かれた古墳群で現在発見されているだけでも33基におよんでいる。中でも1号墳は全長70mにも及ぶ前方後方墳で、発掘された埴輪などから4世紀前半に築造されたものと推定されている。
06/06/2018 / 最終更新日時 : 06/07/2018 桃太郎 史跡 宇喜多堤起点之地碑 戦国時代末期、戦国大名宇喜多秀家が児島湾干拓の端緒を開いた所。秀家はここ多聞ヶ鼻を起点として倉敷の向山の宮崎へ至る堤と、当時は高梁川の河口であった酒津から向山に至る堤を築くことを命じて早島と向山周辺に広大な大地を生み出し、以後400年にわたる児島湾干拓が始まった。
06/05/2018 / 最終更新日時 : 06/06/2018 桃太郎 史跡 南山明地古墳群ー南山明地2~4号墳ー 小田川合流点付替え事業での南山城跡発掘調査において、南山城跡西側の尾根上に古墳時代の古墳3基ー南山明地2~4号墳ーが並んで築かれているのが見つかった。どの古墳にも周りに円形の溝が掘られており、4号墳では二つの埋葬施設が、2号墳、3号墳には一つの埋葬施設が見つかっている。築造時期は古墳時代前期後半~古墳時代中期前半と考えられている。
06/05/2018 / 最終更新日時 : 06/06/2018 桃太郎 史跡 南山明地遺跡 小田川合流地点付替え事業における発掘調査で南山城跡西側の丘陵の南斜面で弥生時代中期の竪穴住居や土坑(大きな穴)が見つかると共に弥生土器や石器が出土。北風を防げる南斜面に弥生時代の集落が広がっていたことが推測される。2018年5月25日の小田川合流点付替え事業、南山城跡現地説明会に参加し取材した情報です。
05/26/2018 / 最終更新日時 : 05/30/2018 桃太郎 史跡 小野小町姿見の井戸 平安時代、絶世の美女として知られていた小野小町が疱瘡を患いこの地で療養していた時、この地の日間薬師に病気平癒の願を立てると共にこの井戸を鏡として自分の顔を映して病気平癒を願っていたという井戸。疱瘡が全治した後も父、小野備中守常澄の赴任地であった都窪郡黒田村に帰って小庵を建て尼となって一生を終えたといわれている。
04/20/2018 / 最終更新日時 : 04/21/2018 桃太郎 史跡 藤井宿ー旧山陽道ー 山陽道の中で岡山城下に最も近い宿駅(宿場町)が置かれたところで、町並みにその面影をとどめている。山陽道は時代を経るにつれて度々そのルートも変遷しており、宇喜多秀家の付け替え(藤井―長岡―原尾島―森下―内山下(桜の馬場))により、宿村(現在は岡山市古都宿)に替えて、藤井が宿駅となった。
03/19/2018 / 最終更新日時 : 03/29/2018 桃太郎 史跡 倉敷代官所跡 この附近一帯は、戦国時代の砦の跡で、関が原の合戦で東軍が勝利を得てから徳川幕府の直領(天領)となり、大阪冬の陣の時、兵糧米を倉敷湊から大阪に積み出すため陣屋とした。それ以来、寛永19(1642)年には倉敷代官所となり、以後明治維新にいたる二百余年間、倉敷代官所は備中(倉敷)美作(久世)讃岐(塩飽諸島)の天領を支配してきた。
01/02/2018 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 箕作阮甫旧宅 幕末(19世紀初めごろ)の洋学者である箕作阮甫の生誕地。阮甫は21歳で津山藩医となり、後に江戸に出て洋学を学んだ。カラフト問題でロシアと交渉した時の日記「西征紀行」はよく知られている。阮甫の生家が復元保存され、国指定史跡 […]
10/29/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 大山寺世代墓 豪円山登山路をのろし台に向かって上る途中、松の木の下に墓石が7基並んで立っている。これは大山寺中興の祖である豪円僧正を第1世として、第2世より第8世までの7代の墓を祀ったもの。第7世と第8世との間が離れていることから、この松の木は少なくとも第8世の墓をここに祀る時にはここに生えていたと考えられる。
10/29/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 豪円地蔵 大山寺中興の祖豪円僧正を祀ったもの。豪円僧正は大山寺寺領の事で米子城主と争い、没する時に「吾を葬るには米子城を俯瞰すべき地に於いてせよ、吾必らず異日米子城の没落を見せよう」と遺言したのでこれを呼滝山に葬った。後3年、城主中村一忠は頓死し、その家はついに血統を絶ったという。
10/29/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 豪円山のろし台 僧兵のろしの場とも言われ、元弘3(1333)年、後醍醐天皇を奉じた伯耆国の武将、名和長年と鎌倉幕府軍との間で起こった船上山の戦いの際、大山寺の僧、信濃坊源盛が700人の僧兵をひきつれて、兄名和長年を助けた。その時この高台でのろしをあげて敵の襲来を知らせたと伝えられこの名がある。
10/20/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 三輪平太の墓と清浄泉 大山寺本殿は、文化2(1805)年に再建されたが、その本殿建立にかかわった宮大工の墓が、桝水高原から大山寺へ行く大山環状道路の右側、横手橋の手前に数体の地蔵尊と共にひっそりと建っている。そして、その墓のすぐ脇には「清浄泉」と呼ばれる湧水があり、横手道を歩く登山者ののどを潤している。
10/15/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 吉持地蔵 江戸中期の頃、会見郡の長者吉持甚右衛門(吉持家第4代)が、経悟院住職・豪堅に仲を持ってもらい、農業用の水路(完成後の名前は佐野川用水)の完成を願って寄進したもの。大山寺の数多い地蔵の中で自然石にきざまれた数すくない地蔵である。大山寺から大神山神社奥宮に続く石畳の道の中間あたり右側にある。
10/10/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 旧岡山藩藩学 岡山藩主の池田光政が藩士の子弟教育のために寛文9(1669)年に創設した藩学校跡。廃藩置県後の明治4(1871)年7月に閉校になり、明治9(1876)年に岡山県師範学校、明治44(1911)年岡山県女子師範学校が置かれ、旧建物は漸次撤去された。
10/09/2017 / 最終更新日時 : 03/16/2018 桃太郎 史跡 岡山藩郡代津田永忠の事蹟 岡山藩主池田光政、綱政の2代、50年にわたって仕え、和意谷に池田家墓所の造営、旭川の洪水から岡山城下を守るため、百間川放水路の開削、倉田新田、沖新田など新田の干拓、倉安川の開削、池田家の菩提寺である曹源寺の建立、後楽園の造営など現在の岡山の基礎となる各種事業を手がけ完成させる。
10/09/2017 / 最終更新日時 : 10/09/2017 桃太郎 史跡 津田永忠遺績碑 この石碑は岡山後楽園の正面入り口から近い所、鶴舎と茶店の中間地点あたりにある。この碑文を読むと熊沢蕃山と津田永忠の二人のうち、津田永忠の業績が世間にはほとんど知られていないため、これを再評価したいと願う木畑道夫達がこの碑 […]
10/09/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 鏡の州用水湧水池 和意谷川がつくった扇状地の先端地域の水田化のために計画された、サイホン方式を用いた地水下利用の用水施設。飯山と権現山の間の約200mの土地で、地中に粘り気の強い赤土で堤防をつくり、地下水を食い止めて方向を変えさせ、鏡の州に湧出させる仕組みとなっている。
10/05/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 内尾大水門 この内尾第水門は、江戸時代後期の1824年頃に構築された水門で、国内に現存する石造の水門や樋門の中では最長、約10mの花崗岩を使用している。
10/05/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 神崎川分水樋門 神崎川分水樋門は、津田永忠が幸島新田を干拓したと同時期に構築したとされる樋門(完成1683年)で、県下で構築当初の姿を留めている石造り樋門としては最古のものと推定されており、330年以上経過した石護岸も崩れることなく見事な当初の姿を留めている。
10/04/2017 / 最終更新日時 : 03/26/2020 桃太郎 世界かんがい施設遺産 百間川一の荒手・二の荒手ー永忠堤(えいちゅうつつみ)ー 一の荒手(越流提)は、岡山城下を旭川の洪水から守るため開削した百間川放水路に流入する水量を調節するための洗堰。三つの洗堰(一の荒手・二の荒手・三の荒手)が設けられたが、現在、一の荒手・二の荒手のみが残っており、三の荒手は消失している。
10/03/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 建部井堰 旭川中流域の岡山市北区建部町にある、江戸時代初期に構築されてから約350年の歴史を持つ井堰。保存状態良好で稼働中、かつ国内最大級の石造り斜め取水堰として土木学会選奨土木遺産に認定されている。
10/03/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 百間川大水尾旧堤 百間川大水尾旧堤は、岡山城下を旭川の氾濫による洪水の被害から守るためにの旭川放水路(百間川)河口部の大水尾(おおみお)を造るために築いた堤防。大水尾は、洪水の際、満潮時など潮位が百間川の水位より海側の水位が高いと排水が困難となる為、樋門で水量を調整する為に一時的に水を貯める広大な遊水池。
10/03/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 井田跡 中国周代の井田法を模して寛文10(1670)年岡山藩主池田光政が津田永忠に命じてこの地に造らせた地割遺構で上井田、下井田からなる。上井田は面積九町七畝(約900アール)、下井田は九町三反十八歩(約930アール)を一区画一町歩(約100アール)を単位にして、一ノ町から九ノ町に九等分し井田法を実施した。
09/29/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 倉安川吉井水門 吉井川を下る高瀬舟を直接岡山城下へ導くと共に、新田の灌漑のため岡山藩主池田光政が津田永忠に命じてつくらせた運河ー倉安川ーの取入口の水門。この水門の特徴は、二つの水門によって水位差の調節を行い通船する閘門式の水門で約300年を経た現在もほとんど完全な形で残っている。
09/23/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 伊勢国亀山領陣屋跡 ここ中津井地区は、美作津山城下と備中松山城下を結ぶ街道の要衝として発展してきた歴史薫る街。奥吉備ほくぼう「なかつい陣屋」は、江戸時代、備中松山藩主が伊勢の亀山藩に移る際に、伊勢亀山藩の飛地領として代官所(陣屋)を設置した跡に復元した農村型リゾートの宿泊施設。
09/23/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 奥吉備ほくぼう「なかつい陣屋」 「奥吉備ほくぼうなかつい陣屋」は、江戸時代、備中松山藩主が伊勢の亀山藩に移る際に、伊勢亀山藩の飛地領として代官所を設置した所で、その陣屋跡を復元した農村型リゾートの宿泊施設。ここ中津井地区は、美作津山城下と備中松山城下を結ぶ街道の要衝として発展してきた歴史薫る街。
09/22/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 大谷・定古墳群 真庭市上中津井では7世紀に入って、定東塚・定西塚・定北・大谷1号・定5号・定4号の6基の横穴式石室の方墳が次々と築かれた。総称して大谷・定古墳群という。6基の各古墳はいずれも、石垣状の列石を有する段構造の方墳であることを大きな共通点としている。
09/22/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 定北古墳 定古墳の背後に位置する丘陵の斜面に築かれた、3重の列石をめぐらす整った形の方墳で、南辺で21.0メートル、東辺で25.3メートルの規模をもっている。南に向かって開口する横穴式石室は、この地域でとれる礫岩(れきがん)の切石 […]
09/22/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 定東塚・西塚古墳 この古墳は、横穴式石室をもつ、東塚と西塚の2基の方墳で構成されている。石室は、いずれも古くから開口していたが発掘調査の結果、東塚の石室からは4基の陶棺が出土し、西塚からも6基の陶棺と、木棺の痕跡がみつかった。東塚は、7世紀前半につくられ、続いて西塚が築かれたと考えられる。
09/20/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 大谷1号墳 7世紀後半築造の、3段の墳丘と前面に2段の基壇をもつ5段積みという全国的にも例のない方墳で、東西で22.7m、南北で16.2m、高さは1段目から墳頂まで8mという規模。過去の発掘例でも天皇クラス以外にはない。副葬品と合わせて大和政権と深い関わりのあった高位の人物のものと考えられる。
09/12/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 博物館・資料館 月の輪古墳 吉備高原の一角、吉井川と吉野川の合流点を見下ろす、海抜320mの山の頂にある径59m、高さ9mの円墳。斜面の中ほどに幅約1mの段をめぐらし、北方に小さな不整方形の造り出しもつ古墳で、発掘調査の結果、多数の副葬品が出土し、古墳時代に美作の一角に君臨した豪族をうかがう貴重な資料となっている。
07/31/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 常夜灯ー信城寺境内ー この常夜灯は、撫川と庭瀬の堺となっている堺川の撫川寄り、北側の橋詰にあった常夜灯。最上部の宝珠まで地上総高4mに余る大きさで軸石の三面に「吉備津宮」「文化二年乙丑九月吉旦」(1805年)「発起人橋本屋吉兵衛」の銘があり、四段の台石の上段には「世話人大黒屋」「栄講中」とある。
07/31/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 法万寺川 この法万寺川の水は、総社、宝福寺近くの高梁川合同堰から取水した農業用水を、足守川を経由して流れてきており、江戸時代、この川は庭瀬城の外濠としての役割を持っていた。この地区では、水路を水運として利用し、備中南部の舟物資集散地の要所として栄えており、水路には雁木(船着場)が設けられ、荷物の積み替えも行われていた。
07/31/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 金毘羅道 「こんぴらさん」に参詣する往来に建てられた「金毘羅道」の道標。岡山城下からは、野田付近で庭瀬往来と別れて南下し、下津井湊を通るルートの他、江戸時代中期以降は、児島の「瑜伽大権現」との両参りも盛んになり、岡山城下からは吉備津神社、高松稲荷へ参詣してから庭瀬、早島、天城を経るルートを選ぶ人々も多かった様子。
07/28/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 太鼓橋 この太鼓橋は、撫川城跡の北西の住宅地の中にあり、戸川氏の時代にはここに大手門があったと言われている。そしてここにあった大手門は現在撫川城址公園の門として撫川城跡に移設されている。撫川城周辺はもともと沼地であり、運河が張り巡らされており橋も数多くあったものと思われるが、現在はこの太鼓橋だけが当時の様子を語っている。
07/26/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 旧庭瀬港と常夜燈 陣屋町庭瀬は、町を東西に貫く庭瀬往来や足守川があったことから、明治24年に山陽鉄道(現在のJR山陽本線)が開通するまでは、足守川とその支流や地区内に張り巡らされた堀や水路を利用した船運が盛んで、足守川河口で瀬戸内海を航行 […]
07/25/2017 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 撫川城跡 撫川城は、永禄2(1559)年に備中成羽城主三村家親が、備前の宇喜多直家の侵攻に備えて築城したといわれている。城跡は東西77m、南北57mの長方形で、外側に幅15mの濠をめぐらしている。約30アールの城跡の北側と西側には完全な石垣が残り、水をたたえた濠が周囲を取り巻いていて、戦国時代末期の沼城の跡を留めている。
07/22/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 一本松古墳 岡山市街地の北部半田山丘陵の一角、半田山植物園の上標高85mにある、全長65mの前方後円墳。後円部の頂上には、大きな穴の跡があるがこれは、第二次大戦中の高射砲陣地の跡とか。この古墳の下に設けられた展望台からは岡山市街地はもとより、操山丘陵から児島半島方面に向けての眺望が広がっている。
07/18/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 津島遺跡 縄文時代末期から弥生、古墳時代にかけての大規模な集落の遺跡、昭和43(1968)年、岡山武道館の建設工事中に発見された。竪穴式住居跡をはじめ多量の石器、土器が出土し、弥生時代中期の半乾田が確認されるなど、わが国が水田稲作を始めた頃の様相を知る上できわめて貴重な遺跡である。
06/18/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 難波抱節先生顕彰碑 難波抱節は、幕末の、日置家の侍医で、備前、備中、備後地方屈指の漢方医、産科、種痘の先駆者として知られていた。胎座新書(産科)、散花新書(種痘)等の著書も多く、全身麻酔をして乳癌などの手術をしたと伝えられている。邸宅跡は現在、妙覚寺の所有となっているが、今日なお当時の遺稿を伝えている。
06/16/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 徳倉城跡 御津金川と岡山空港を結ぶ、県道61号線沿いの遠藤山上にあった城跡。本丸の石垣がよく保存されており、岡山県指定史跡に指定されている。戦国時代、金川城主松田氏の支城としての時代が続いたが、城主宇垣一郎兵衛の時、宇喜多直家により謀殺。宇喜多氏の家臣である遠藤河内が城主となるも、関ヶ原合戦後、廃城となった。
06/13/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 彦崎貝塚 縄文時代前期~後期にかけてつくられた貝塚。かって灘崎から現在の児島半島にかけては、縄文時代には島であった。そのため、この周辺は、西日本でも有数の貝塚密集地としてよく知られていた。彦崎貝塚からも縄文時代の彦崎式の土器や多く […]
05/31/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 戸川陣屋井戸 この井戸は、妹尾の旧領主(戸川氏)の陣屋にあった井戸。明治になり陣屋が廃止された後も飲料水の不足に悩む土地の人々が利用したもので、当時の形態をよく伝えている。妹尾の土地を知る文化財として、昭和47年3月24日、岡山市指定有形民俗文化財に指定された。
05/28/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 亀山城跡 別名沼城ともいう。湿田の中に島状に並ぶ二つの丘陵に築造された連郭・輪郭式折衷の山城。城郭遺構が丘陵全体に残っている。宇喜多直家が永禄2(1559)年に主君浦上宗景よりこの城を賜り、新庄山城より移って以来天正元年(1573 […]
05/26/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 岡山孤児院発祥の地 100年余り前、今の岡山市門田屋敷に最大1,200人の孤児を収容していた民間施設「岡山孤児院」があった。創立者で、運営のリーダーが石井十次だった。十次は、22歳の時、ここの大師堂で兄妹2人の子連れの旅の母親から一人の男児を預かって以来、48歳で世を去るまで、孤児の救済と教育に人生をささげた。
05/25/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 大廻小廻山城跡 大廻小廻山城跡は、総社市の鬼ノ城と同時期、663年の白村江の戦いなど、東アジア情勢が緊迫した7世紀頃に築造されたと推定されている。発掘調査の結果、列石と版築盛土からなる土塁を3.2kmに渡って周囲に巡らせており、土塁が谷部を渡る3箇所には石積みの防塁を伴った水門が造られている。
05/23/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 万富東大寺瓦窯跡 治承4年(1180)源平の戦いで焼失した東大寺大仏殿を、鎌倉時代初期、俊乗房重源を中心に再建した際、その瓦を焼いた窯跡の一つである。大寺山および上の山と呼ばれる丘陵の斜面に窯場跡が、平坦部には、礎石建物、暗渠排水施設、竪 […]
05/21/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 浦間茶臼山古墳 全長約138m、後円部径約81mで、3世紀末頃に造られた、吉備地方でも最古の前方後円墳と推定されている。円墳頂部には巨大な乱掘壙が残されているが、近年(1988)の発掘調査により長大な竪穴式石室をはじめ、銅鏡など多数の遺物が出土した。
05/11/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 平賀元義ゆかりの地ー布施神社境内ー 平賀元義は、岡山藩士の家に生れながら、脱藩、放浪生活を送り、新古今調の和歌が全盛だった幕末に、ひとりおおらかな万葉調の歌を詠んだ異色の郷土歌人で、明治になり正岡子規に万葉以来の歌人と絶賛された。その平賀元義が晩年滞在していた所ー布施神社ー。境内には歌碑が二基建てられている。
05/10/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 大多羅寄宮跡 岡山藩主、池田光政が、領内の神社の由緒を調べさせ、翌年、産土神601社および由緒ある神社を残し、社や祠10,524社を廃して、71社の寄宮に合祀した。その後、正徳3(1713)年、次の藩主、綱政が、この地にあった句句廼地神社境内を拡張、社殿を建て71社の寄宮の内5社だけを残し66社を合祀した。これが大多羅寄宮。
05/04/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 操山の古墳 操山には、金蔵山古墳をはじめ、古代この地方で勢力を誇っていた支配者の墓が50余基確認されている。大半は、古墳時代後期(6世紀)に造られた横穴式石室を持つものであるが、旗振台古墳のように前期(4~5世紀)の方墳や、二股古墳と呼ばれる珍しい形式のものもある。
05/04/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 石鉄山古墳 岡山藩池田家菩提寺曹源寺の三重塔の背後にある丸い山、円山とか高倉山と呼ばれている山の上(標高138m)、円山山頂ふれあい広場の南東にある古墳。詳細は不明であるが、古墳の前には、No.76 古墳後期、操山古墳群54号墳(石鉄山古墳)との銘板が付けられている。
05/03/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 二股古墳 小型の横穴式石室墳7基の小古墳群からなり、古墳群の盟主と思われるこの古墳は、遺骸を安置する玄室が二室に別れていることから二股古墳と呼ばれている。築造時期は6世紀後葉から7世紀初頭と推定、当時の有力家族の構成を反映するものとして注目されている。
05/03/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 萩の塚古墳 操山山頂から東に延びた稜線の先端に築かれている円墳で、現状では小振り墳丘であるが、本来は直径10m、高さ2.5m程の規模であったと想定される。築造時期は6世紀後半と推定でき、操山北山麓に住んでいた当時の有力者の家族墓と考えられる。
05/02/2017 / 最終更新日時 : 03/27/2018 桃太郎 ハイキングコース 操山公園ー操山丘陵ー 操山は、岡山市東部に位置する、後楽園の借景ともなっている山で、山中には築造当時としては、県内でも最大の金蔵山古墳をはじめ多くの古墳や史跡が散らばっている。山上には展望の開けた所が数ヶ所あり、岡山市街や岡山平野をはじめ、遠く小豆島、瀬戸内海などを眺めることが出来、散策に最適。
05/02/2017 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 明禅寺城跡 操山山系のハイキングコース中でのビューポイントの一つ。宇喜多直家が亀山城を居城にしていた頃、西の備中国への備えに築いた出城跡。毛利側の三村氏との間で歴史に残る明禅寺合戦の行われた所としても有名。岡山市街の中心部付近から岡山空港方面にかけて北西部の展望が開けている。
04/30/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 旗振台古墳 操山山系のハイキングコースの中で主要ポイントの一つにここ旗振台古墳ー展望所ーがある。案内板によると5世紀前半に築造されたと推定される方墳で、当時の吉備国の一部を治めた豪族のな構成員が葬られたと考えられている。ここからの岡山平野、児島湾方面の眺めは素晴らしく、休憩舎は操山愛好家たちの交流と憩いの場所となっている。
04/30/2017 / 最終更新日時 : 03/13/2018 桃太郎 仏閣ー寺院ー 古立石不動明王 沢田の恩徳寺の北西、操山の山裾に沿った道を岡山市街方面に向かって西に進むと、道が細くなる所左側に古い石段がある。大木の根本に立てられた岩の脇に小さい祠が祀られており、付近には、神社であったことを思わせる破壊された石が放置されている。奥には、古立石不動明王と書かれたお堂があり、摩崖仏の不動明王が彫られている。
04/27/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 八畳岩古墳 操山山系の稜線に沿った遊歩道上にある古墳。石室を覆っていた墳丘は流出、露出した石質の岩が大きいことが古墳の名称となっている。この岩からは、かっては吉備の穴海と呼ばれる遠浅の海であった岡山平野、児島湾方面の眺望が開けており、操山山系を縦走する人達の良い休憩所となっている。
04/27/2017 / 最終更新日時 : 03/12/2020 桃太郎 史跡 金蔵山古墳 全長約165m、後円部の高さが18mの大型前方後円墳で、造山古墳、作山古墳、両宮山古墳に次ぐ県下4番目の大きさ。造られた時期は4世紀末~5世紀とされており、この時代では西日本最大の規模を誇る。1953年の発掘調査の結果、この古墳から鉄製品を始めとした多数の副葬品や、多くの各種埴輪が出土している。
04/27/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 ハイキングコース 三勲神社跡 三勲神社跡は、和気清麻呂、楠木正行、児島高徳を祀っていた旧県社跡。操山山系の西端にあり、岡山市街の眺望がすばらしい。操山散策路の一部で、春、ソメイヨシノが散り始める頃から周辺には、「コバノミツバツツジ」の花が咲き誇る。本 […]
04/25/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 幡多廃寺塔跡 県下最大の塔心礎といわれ、白鳳時代後半(7世紀後半)に創建され、平安時代末(11世紀頃)までに廃寺になったと見られる伽藍後に残っている。古代吉備の豪族、上道氏の氏寺の一つと推測され、最盛期の寺院の様相は奈良の都のそれに遜色ないと推定されている。
04/25/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 史跡関白屋敷跡 平安末期に平清盛により備前に流された関白藤原基房の配所跡。基房は関白藤原忠通の二男として生れ、承安2(1172)年関白となるも、兄基実の遺領相続をめぐって清盛と対立、後白河法皇の後楯を得て反平家政策をとった為、清盛の怒りをかい治承3(1176)年に湯迫に流された。
04/24/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 重源上人遺跡 備前国府大湯屋址 湯迫山浄土寺の一角に現在も使われている温泉の源泉がある。この源泉の周囲には、鎌倉時代初期に東大寺の再建のために備前国に赴いていた俊乗坊重源が、庶民の施療のために設けたといわれる大湯屋の跡があり、この一帯からは、「東大寺」と刻印された瓦が発見されている。
04/24/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 仏閣ー寺院ー 湯迫山浄土寺 奈良時代の天平勝宝元(749)年、報恩大師が備前国に創立した四十八ヶ寺の内の一つで、東大寺の再建を命じられた僧 重源が、東大寺の修理料国として与えられた備前国において、国務のかたわら浄土教を広めた寺の一つとして知られている。重源が庶民施療のために設けた大湯屋跡があり、一帯からは「東大寺」の刻印のある瓦が発見されている。
04/22/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 賞田廃寺跡 竜の口山南山麓に建立された、備前地域では最古の寺院跡。白鳳時代に創建され、鎌倉時代前期(13世紀)にかけての存続が判明しているが、最盛期は奈良時代後半で、主要堂塔が整備された壇上積基壇の遺構も出土している。当地を掌握していた上道氏の氏寺の一つと想定されている。
04/19/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 岡山藩主池田家墓所ー曹源寺ー 岡山藩主池田家の墓所は、池田光政が津田永忠に命じて、造営した和意谷墓所と、その子綱政が同じく津田永忠に命じて造営した曹源寺(正覚谷墓所)の二ヶ所にある。和意谷墓所は儒教の影響を受けた墓所で、曹源寺墓所は仏教(禅宗)の影響を受けた墓所である。
04/19/2017 / 最終更新日時 : 11/05/2021 桃太郎 主な庭園 護国山曹源寺 岡山藩第2代藩主・池田綱政が、高祖父の信輝と父・光政の菩提を弔い、また自らの冥福を祈るために、江戸時代中期の元禄11年に創建した西日本屈指の臨済宗の寺院。書院の東に、山を背景にして心字池を配し、山畔の中ほどには枯山水の石組みを造り、書院と池との間に砂敷を広げて海景を表している。
04/17/2017 / 最終更新日時 : 04/17/2017 桃太郎 史跡 百間川遺跡群 百間川遺跡は、旭川の氾濫から岡山城下を守るために造られた放水路、「百間川」流域の微高地とその周辺で発見された弥生・古墳時代の遺跡群。流域には、原尾島、沢田、兼基、今谷、米田などの各遺跡が点在しており、微高地からは、竪穴住居、墓などがまた、微高地周囲の低地からは水田跡が発見されている。
04/16/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 祇園大樋 この祇園大樋で分水された水が、ここから下流の旭川東部(左岸)の広大な平野をうるおしている。その築造が、元禄年間に津田永忠が、沖新田を開発した時、灌漑用水の確保をはかるためになされたことを知るにつけ、改めて津田永忠の偉大さについて考えさされる。
04/07/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 青佐山御台場展望台 青佐山の東側中腹に、文久3年鴨方藩が海防のために築いた台場跡がある。この台場跡付近の展望台からは、塩飽諸島や笠岡諸島の多島美が楽しめるほか、瀬戸大橋がほぼ真横から展望できる。砲車は、明治4年の廃藩置県とともに廃棄され、石塁砲門を据えた跡のくぼ地が残されているだけである。
03/31/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 鴨方藩陣屋跡 鴨方藩は、岡山藩の支藩として寛文12(1672)年に、池田光政の次子政言が、25,000石の初代藩主として治めた藩で、ここはその政務の場である陣屋があった所。現在は、黒住教の教会が建てられており、当時の面影は、石垣と井戸にわずかに残されているのみ。鴨山城跡のある鴨山の山裾にある。
03/30/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 西山拙斎の居宅・私塾跡 江戸後期の儒学者 西山拙斎が京都での遊学を終え39歳の時生誕地に開いた私塾が欽塾で、拙斎の徳を慕って多くの弟子が入門した。拙斎は、64歳でこの至楽居に没するまで教育に携わった。至楽居の庭内の円い蓮池に架け渡してある華月橋上の拙斎を描いた田中索我の作品が今も残っている。
03/26/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 史跡 早島戸川家陣屋跡 早島は、江戸時代の初め寛永8年に達安の次男安尤が3,400石で封じられて以来13代、安宅の代まで、干拓によって開かれた豊かな土地といぐさ産業を背景に、旗本戸川家の陣屋町として発展してきた。この陣屋は元禄年間、2代安明の代に普請にとりかかり17年の歳月を費やして宝永6年に完成した。
03/23/2017 / 最終更新日時 : 06/19/2018 桃太郎 史跡 宇喜多堤 今から約420年前、宇喜多秀家の命により、岡豊前守と千原九右衛門らの指揮のもと築かれた宇喜多堤。(現県道152号 岡山ー倉敷線)そのきっかけは、どうも織田信長の家臣、豊臣秀吉による高松城水攻めの時の二人の築堤技術にあったようです。
03/05/2017 / 最終更新日時 : 03/18/2018 桃太郎 ハイキングコース 熊山 山頂付近は、熊山奥吉原郷土自然保護地域に指定されており、展望台からは、岡山平野を流れ下る吉井川や、遠く小豆島、屋島など瀬戸内海とその周辺の景色を望むことができる。また、周辺には奈良時代の築造と言われる「熊山遺跡」や児島高徳が挙兵をしたと伝わる熊山神社などがありハイキングコースも整備されている。
03/04/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 熊山遺跡 標高508mの熊山山頂にある全国に類例を見ない石積み遺構で、ほぼ方形の基壇の上に、割石で三段に構築している。第一段は南面が狭く、北面が広い台形、第二段は、南面が広く、北面が狭い台形になっている。第三段は、方形であるが、中央部分に大石で竪穴の蓋がしてある。戒壇に似た、類例のない特殊な遺構である。
03/04/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 帝釈山霊山寺跡 帝釈山霊山寺は、奈良時代、鑑真和上が建立したと伝わる寺で、熊山修験道の拠点となっていたと言われている。現在は、霊山寺本堂に通じる階段跡、「鐘楼か観音堂跡」と思われる遺跡や塔身に「僧顕空 正應五壬辰七月十日」と刻まれた、霊山寺にいた僧顕空のものと思われる供養塔などが残っている。
03/04/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 児島高徳挙兵の跡 児島高徳が25歳の年、足利尊氏が叛いて九州から攻め上がって来た時に、上寺山の館から熊山に旗挙げー建武3(1336)年4月ーをして新田義助を助けに行った所。熊山神社境内、拝殿に向かって右側には、児島高徳が腰掛けたと伝わる岩と旗を立てたと伝わる岩が、前後に並んで鎮座している。
03/04/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 熊山神社 熊山の山頂に祀られている熊山神社は、切妻平入り神明造りの本殿で、祭神は大国主命。熊山山頂付近には中世「帝釈山霊山寺」の伽藍があり熊山神社はその鎮守であった。明治初期の神仏分離令により開扉。境内には、児島高徳挙兵の跡として、上寺山の館から熊山に兵を挙げた時の腰掛岩と旗立岩がある。
03/01/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 仏閣ー寺院ー 小川山 常念寺 自性院 常念寺 自性院は、日野富子が亡き夫、室町幕府八代将軍、足利義政の供養をするため、義政の造営した、京都東山にある慈照寺(銀閣)にちなみ建立した寺といわれている。寺の庫裡の脇の建物には、足利幕府8代将軍の供養塔と将軍の正室、日野富子の墓と伝えられる宝篋印塔が建てられている。
02/28/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 史跡伝和気清麻呂公墓所 赤磐市熊山地区の松木に、和気清麻呂公・広虫の墓と伝えられる二基の宝篋印塔が建っている。向かって左が、清麻呂公、右が姉、広虫の墓と伝わっている。墓の前には、備前焼の清麻呂像が建っており、毎年3月1日は、この清麻呂塚のお祭りとなっている。
02/26/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 備前国分寺跡 昭和49年の発掘調査によると、東西180m、南北240mの寺域を有していたと推定されている。聖武天皇が、鎮護国家を願って全国に建立した国分寺の一つで、創建は、奈良時代の後半ごろで、室町時代に火災で焼失したものとみられている。
02/25/2017 / 最終更新日時 : 05/28/2018 桃太郎 史跡 両宮山古墳 5世紀中頃に築造された、全長192mの前方後円墳で、造山古墳、作山古墳と並び、県下の三大古墳に数えられ、周濠を持つとしては、県下では唯一のものである。周囲を、廻り山古墳、森山古墳、茶臼山古墳、正免東古墳が取り囲み全体が大規模な墓域となっている。
02/20/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 岡山藩主池田家墓所ー和意谷ー 岡山藩主池田家の墓所は、池田光政が津田永忠に命じて、造営した和意谷墓所と、その子綱政が同じく津田永忠に命じて造営した曹源寺(正覚谷墓所)の二ヶ所にある。和意谷墓所は儒教の影響を受けた墓所で、曹源寺墓所は仏教(禅宗)の影響を受けた墓所である。
02/18/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 皇屋敷跡 承久3(1221)年、承久の乱で敗れた後鳥羽上皇が隠岐島に配流された時に一夜の露をしのいだ所といわれている。現在はその跡地に石碑が建てられている。
02/18/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 石小詰の塚 南北朝時代の石造美術品。山法師が庶民の幸福を祈り生き乍ら入定した時、村人は、命が長らえる様小石を入れて空気が通る様にしたので法師のたたく鉦の音が十日間位聞こえたという。小石をもち帰り患部をさすると内臓の諸病に効くと言われ、治ると二つの小石を返す習慣がある。