02/16/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 和気清麻呂公屋敷跡 この下、八塔寺川添いの御所ヶ原は、奈良から平安にかけて中央政界で重きをなし、長岡遷都や平安遷都に尽力した和気清麻呂公の御屋敷跡の一つと伝えられ貴重な史跡とされてきた。しかし、八塔寺川ダム建設により水没することになったことから顕彰のため記念碑を建て、永く後世に伝えることとした。
02/04/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 大多府加子番所 加子とは水夫のことで、加子番所は、岡山藩政時代の水夫の詰め所。幕府の用船への飲料水の供給、諸侯の船が風待ちなどで入港した時に、在番役人が港内にいる船を引き連れてご機嫌伺いに行くなどのためにこの番所が置かれていた。在番所は […]
02/03/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 六角大井戸跡 元禄11(1698)年大多府港の開港と同時に作られたと伝えられる大多府唯一の井戸である。この井戸は開港以来水道開設まで、最盛時島民1,000人と16ヘクタールの耕地をまもり伝えてきた250年の歴史をもっている。井戸は、当時の作事奉行津田永忠のもとに近隣の名主を動員して構築された。
02/02/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 大多府燈籠堂 大多府燈籠堂は、岡山藩池田綱政公治世の正徳4(1714)年に建立され、明治初年まで約150年間にわたり沖合を行く船の目じるしとして、燈明が入れられた。今般昭和61年3月当時の台石の上に記念塔として再建されたものである。規模 燈籠堂ー高さ10.91m、台石ー高さ1.80m、上面5.10m、底面5.70m、
02/02/2017 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 元禄防波堤 元禄10年、参勤交代で江戸に向かっていた薩摩藩主津島公が、台風で大多府島に非難、江戸城にて池田綱政公に大多府の天然の良港ぶりを説き割譲を申し込んだのがきっかけで、綱政は津田永忠に大多府築港を命じ一年足らずで港湾設備を整備、開港した。この時に作られた防波堤が「元禄防波堤」として今も当時の威容を誇っている。
12/30/2016 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 岡隆山 薬王寺跡 薬王寺は、奈良時代の報恩大師ゆかりの備前48ヶ寺の一つ。平安、鎌倉、南北朝、室町時代にかけては、五反余の寺域に、三院(乾生院、西浄院、成就院)、六堂(薬師堂、大師堂、観音堂、仁王堂、阿弥陀堂、十王堂)が建ち並ぶ大寺院で、日常多数の参拝者でたいへんなにぎわいであったと伝えられている。
12/29/2016 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 福岡の市跡 福岡の市は、鎌倉時代福岡庄のなかで開かれていた定期市のひとつであったと推定されている。同荘園内には、現在でも一日市(ひといち)や八日市(ようかいち)などの地名が残っており、日によって定期的に市が開かれていたと考えられる。 […]
12/28/2016 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 黒田家墓所 妙興寺境内の墓所に、黒田家のものとされる墓塔がある。古くて刻まれている文字ははっきりしないが、豊臣秀吉の軍師として活躍した、黒田官兵衛孝高の曽祖父高政の頃のものではないかと云われている。高政は、永正8年に備前福岡に移住、祖父重隆の代になって播磨に移っている。
12/27/2016 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 宇喜多興家公の墓 宇喜多能家(砥石城主)は、天文3(1534)年、同じ浦上家の重臣である島村豊後守(高取山城主)の奇襲を受けて城を枕に自害した。子の興家は、当時6歳の八郎(後の直家)を連れて備後の鞆へ落ちのびたが、ほとぼりのさめたころ備前福岡に戻り豪商阿部義定のもとに身を寄せた。
12/23/2016 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 造剣之古跡碑 明治から大正にかけての刀匠横山元之進祐定が備前刀の産地であったことを後世に残すために私財をを投じて建立した石碑。高さ5mの刀の形をしており、きっさきを空に向けて建てられている。刀を必要とする時代が終わりその輝かしい歴史が消えゆくことを惜しむ建立者の強い危機感が伝わってくる。
12/23/2016 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 城の内ー伝兼光屋敷跡ー 南北朝時代、太刀を鍛えた褒美として足利尊氏から、当時の名工兼光が賜ったと伝えられている所で、城の内築地(つんじ)と呼ばれている。一町(約100m)四方の壕をめぐらし、四方に櫓を建てた城に、代々鍛冶が居住し、鍛刀したといわれている。
12/10/2016 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 備前陶器窯跡伊部南大窯跡 桃山時代から江戸時代にかけて、備前焼の同業者が共同で使用した大窯で、山麓の傾斜地に、東窯・中央窯・西窯と三基の長さ30mから60m、幅2mから3mに及ぶ半地下式の登り窯を築いている。
12/10/2016 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 天保窯 室町時代後期から江戸時代初期にかけて、備前焼は大窯で大量生産されてきた。しかし、江戸時代後期になると備前焼の需要が低迷、大窯を使用することが非効率となり、規模を縮小した三基の小窯が造られた。その一つがこの天保窯で昭和15年頃まで使用された。備前焼の古窯で、源姿をとどめているのは、この窯だけである。
12/10/2016 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 備前陶器窯跡伊部北大窯跡 伊部北大窯跡は、不老山の南斜面に位置し、標高40m~50mの範囲、忌部神社の社叢を中心に所在している。三基の窯跡からなり、忌部神社の西側の傾斜面に二基の窯跡が並行して位置している。北側の一基は室町中期、他の一基は中世末から近世初頭の築窯と考えられている。
12/07/2016 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 旧閑谷学校石門 学校から1km程南に頭部を擬宝珠型にきざんだ二本の石柱がある。これは、かっての閑谷学校の門であった。 今は大半が埋没している。閑谷学校と共に国の特別史跡に指定されている。
12/06/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 旧閑谷学校 岡山藩主の池田光政が、寛文10(1670)年、領内の庶民教育のために重臣の津田永忠に命じて創立し、翌寛文11(1671)年に造らせた学校で、聖廟、講堂、小斎、習芸斎、文庫、門、閑谷神社、石塀、石門等、主要な施設が非常によく保存されている。平成27年4月に日本遺産に指定される。
12/04/2016 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 津田永忠墓 宝永4(1707)年、68才で亡くなった岡山藩池田家の重臣、津田永忠の墓。奴久谷の別邸近くのこの地に葬られた。永忠の他に、永忠の妻、永忠の父貞永夫妻、貞永の後妻、永忠の長男、長女の7人の墓が同場所にある。
11/25/2016 / 最終更新日時 : 03/16/2018 桃太郎 史跡 新田原井堰 吉井川流域で起こる飢饉解消のため、江戸時代に津田永忠の指揮の下、石を使って吉井川を斜めに仕切った田原井堰が造られ、約300年間下流の農地を潤してきた。昭和40年頃以降、用水としての使用が増加して来た為、昭和47年より田原用水の改修が、昭和54年以降は国による新田原井堰の構築が行われてきた。
11/23/2016 / 最終更新日時 : 03/16/2018 桃太郎 史跡 天神山城跡 戦国武将の浦上宗景によって天文元(1532)年に築城された連郭式城跡で山麓には屋敷跡も残っている。城跡は三段と馬場からなっていて、山頂には本丸の礎石が現存している。
11/17/2016 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 浜倉の榎 このあたりは、旧北乃町(現在は西大寺中三丁目)といい、江戸時代には吉井川の堤で西大寺の港として栄え、問屋の倉が吉井川の河岸に立てならび、通称「浜倉」といった。榎は、高瀬舟の目標となり、舟をつなぐのにも利用された。
11/13/2016 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 児島高徳公・和田範長一族供養塔 上寺山一帯は、その昔、和田範長一族の居城や居館のあった処であり、児島高徳が7歳の頃から一族によって育てられた処でもある。その後も、児島高徳は、ここを拠点として活躍をしている。今も、余慶寺は昔の姿であり、明王院や恵亮院は和田一族の菩提寺として現存している。
10/24/2016 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 御茶屋跡 朝鮮通信使の中心的な役割を担う三使(正使・副使・従事官)の宿館として利用された。朝鮮通信使は、江戸時代に日本国と朝鮮国との善隣友好の使者として12回来朝し、当初の4回は本蓮寺が使用されている。近くには承応3(1654)年6月岡山藩により掘られた、関連の井戸もある
10/23/2016 / 最終更新日時 : 10/17/2020 桃太郎 仏閣ー寺院ー 本蓮寺 牛窓港の背後の瀬戸内海を一望できる高台にあり、本堂をはじめとして、番神堂、三重塔など国、県指定重要文化財が数多くある。江戸時代には、朝鮮通信使がこの地に立ち寄る際の宿泊所に当てられていた。
10/17/2016 / 最終更新日時 : 01/16/2020 桃太郎 ジオサイト候補地 大坂城築城残石群 江戸時代(1620年~1629年)に再建した、大阪城の石垣用の石を切り出す石切丁場の遺跡で、前島大坂城築城残石群と呼ばれ、前島展望台を挟んで、A地区からD地区まで確認されている。
10/17/2016 / 最終更新日時 : 04/13/2021 桃太郎 史跡 牛窓天神山古墳 天神山の山頂尾根に築造された墳長85メートルの前方後円墳。埴輪や墳形の特徴から4世紀中葉から後半の古墳と考えられ、牛窓湾を取り囲むように分布する5基の前方後円墳のうち、最初に築造された古墳。
10/16/2016 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 牛窓燈籠堂跡 江戸時代、唐琴の瀬戸を航行する船舶が多くなってきたため延宝年間(1673~1681)に、夜間通行の標識として備前藩主池田綱政の命により建設、明治維新後に基壇を残して取り壊されたが昭和63年に復元。
10/13/2016 / 最終更新日時 : 03/13/2018 桃太郎 体験型観光施設 寒風陶芸の里 「須恵器」を焼いた後がある国指定史跡「寒風古窯跡群」と隣接した一帯を陶芸の里として整備し陶芸作家を誘致。出土須恵器や寒風で作陶する作家の作品の展示室、陶芸教室等からなる「寒風陶芸会館」を建設して来訪者の憩いとふれあいの場としている。
09/24/2016 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 牧水二本松公園 若山牧水が早稲田大学の学生であった明治40年夏、郷里の宮崎へ帰る途中、中国山地を旅して、二本松峠の茶屋「熊谷屋」で一夜を過ごした。後の代表作となる「幾山河越えさり行かば・・・」の歌が生まれた宿であるとされている。
09/22/2016 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 大井野御所原公園 元弘の変(1331~1332)で敗れた後醍醐天皇は、隠岐に流される途中、ここで輿を止めて休息された。それ以来この場所を御所原、このあたりを王居野(大井野)と呼ぶようになったと伝えられている。現在でもここ大井野には後醍醐天皇にまつわるさまざまな伝承が残されている。
09/20/2016 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 方谷庵 山田方谷(1805~1877)が、隠棲後の明治5(1872)年、外祖父母の霊を弔うため母の生家西谷家の菩提寺、金剛寺境内に建立した小庵。外祖父母の位牌を祀る仏間(三畳)と炉のある床の間(三畳)を中心とした平屋建、切妻造、桟瓦葺(もと柿葺)の簡素な茶室風の建物で正しくは継志祠堂と呼ばれている。
09/13/2016 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 史跡後醍醐天皇の休石 鎌倉時代末期、倒幕に失敗した後醍醐天皇が、京都から隠岐の島へ配流される途中、休息の為に御輿をおろされたと伝わる石。国道180号線を新見から明智峠越えで鳥取へ行く途中、千屋の「いぶきの里」手前左側にあり。
09/11/2016 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 笠神の文字岩 高梁川の支流である成羽川の上流、笠神の龍頭の瀬にある鎌倉時代の河川交通の遺跡。わが国の水運開発史上最古のもので極めて重要な史跡。徳治2(1307)年の航路が完成した旨の碑文があるが、現在では新成羽川ダムの貯水池の底になっている。
09/08/2016 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 成羽陣屋跡 山崎氏五千石の御殿で、万治元(1658)年成羽領主として丸亀から入部した山崎豊治(後期山崎氏初代、旗本交代寄合格)が築営し、以来11代210年間明治維新まで山崎氏の本拠となった。
09/08/2016 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 山中鹿之介の墓 高梁市街から高梁大橋を渡り、国道313号線を成羽方面へ行く途中、高梁川に成羽川が合流する付近、かって阿井の渡しがあった付近に「山中鹿之介墓」と書かれた慰霊碑が建てられている。
09/06/2016 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 史跡 備中松山城跡 市街地の北端に聳え、高梁市の象徴として、また「おしろやま」の愛称で広く市民に親しまれている「臥牛山(標高480m)」。その山頂に程近い標高430m付近に位置する「備中松山城」は、現存する山城としては全国で最も高いところにあることで有名。天守、二重櫓・土塀の一部を始め山中に残る数々の城跡が国の文化財や史跡に、また山裾の御根小屋(現県立高梁高校)は県の史跡としてそれぞれ指定されている。
09/04/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 藩校 有終館跡 藩校有終館は、延享3(1746)年に備中松山藩の学問所として創設、明治4(1871)年の閉校まで多くの人材を育てた。現在は高梁幼稚園となっている。山田方谷も21歳の時ここ有終館で学び、32歳からは学頭(校長)を勤めている。
09/02/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 高梁基督教会堂 明治22(1889)年に建設された県下では最古の教会堂。プロテスタントとしては全国でも同志社のチャペルに次いで古い教会堂。明治の洋風建築としても貴重なものである。鐘楼は昭和28(1953)年に付け加えられた。
08/11/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 作楽神社 鎌倉時代から室町時代にかけて美作国守護の館があった所で後醍醐天皇が隠岐に配流の際には行在所(あんざいしょ)とされた。その庭の桜の幹に児島高徳が十字の詩を書いて天皇を慰めたという話は有名。明治2(1869)年の創建。
08/05/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 鍛冶屋谷たたら遺跡 江戸末期から明治20年代にかけて稼働した製鉄遺構。山内にはタタラ跡や作業小屋跡など一連の遺構がよく残っている。蒜山高原の中和地区との境界に近い山中にあり富地区から中和地区へ抜ける山越えの道路も通じている。
07/21/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 間所たたら製鉄遺跡 岡山の県北では砂鉄が多く産出したたら製鉄が盛んであった。ここ美甘地区もその一つで村の名を鉄山(かねやま)村と呼び、江戸時代、村内にはたたら製鉄をしていた所が48ヶ所も有ったと言われている。
07/15/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 殺生石 唐から吉備真備の船で我が国に密航してきた白面金毛九尾の古狐が石になり那須野で毒気を放ち人畜に被害を与えていたのを玄翁和尚が法力により払子(ほっす)で割ったところ、越後、豊後、美作の三高田に飛び散った。その一つがこの 化生寺にあるという。
07/11/2016 / 最終更新日時 : 08/11/2020 桃太郎 史跡 吹屋銅山笹畝坑道 吹屋銅山は大同2(807)年開坑されたと言われている。数ある坑道の内この笹畝鉱道は、江戸時代から大正時代まで採掘され、主として黄銅鉱、硫化鉄鉱を産出した。坑内の気温は15度℃前後と夏は涼しく、冬は暖かい別天地。
07/05/2016 / 最終更新日時 : 03/16/2018 桃太郎 史跡 矢筈城跡 矢筈城は、戦国時代、美作国と因幡国に勢力を有していた国人領主の草刈衡継が、標高756mの矢筈山に築いた全国でも指折りの高地にある山城。矢筈山の北西の山麓には「内構」と呼ばれる城主草刈氏の大規模な居館跡もある。
06/19/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 冷泉宮頼仁親王墓所 JR木見駅近くにあるこの陵墓は承久の変で隠岐に流された父後鳥羽上皇に連座して児島に配流された頼仁親王の墓で、近くの五流尊瀧院には「この里に われ幾年か過してむ 乳木の煙 朝夕にして」の歌碑と同院御庵室には御影が安置されている。
06/16/2016 / 最終更新日時 : 08/28/2018 桃太郎 史跡 温羅伝説 ー桃太郎伝説 の生まれたまち おかやまー 吉備津宮縁起には「桃太郎の鬼退治」の基になったと言われる温羅伝説がある。出てくる人物、地名、動物などは多くが物語として分かり易くしたのだろうが、ゆかりの地を結んでみると当時の地域や戦闘の様子を様々を種々想像することが出来て楽しい。この温羅伝説は、倉敷市・岡山市・総社市・赤磐市に渡って史跡や遺跡が広がっており、「桃太郎伝説」の生まれたまち おかやま~古代吉備の遺産が誘う鬼退治の物語~として平成30年5月27日付にて文化庁より日本遺産に認定された。
06/15/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 天城池田家墓所 天城池田家12代の墓所は、天城中・高等学校の南西にあるお櫻山という丘にある。天城高校の運動場の南、遍照院の裏に参道入口が設けられている。墓所への参道からは天城高校の校庭の向こうの丘の上天城高校のサブグランド横に天城陣屋跡が見える。
06/15/2016 / 最終更新日時 : 03/16/2018 桃太郎 史跡 天城陣屋跡ーお茶屋跡ー 天城陣屋跡(御茶屋跡)は、今は天城中学校・高等学校のグランドとなっており、校門の北から道を隔てて反対側の同校グランドに上った所、学校を見下ろす高台の上に石碑が建てられている。学校の向こう側には天城池田家墓地のある丘陵も見える。
06/14/2016 / 最終更新日時 : 03/13/2018 桃太郎 仏閣ー寺院ー 源氏本陣跡 法輪寺ー源平藤戸合戦ー 源平藤戸合戦の戦跡を巡っていて、佐々木盛綱と漁師の話、そして盛綱の先陣までの戦跡が表に出て戦全体の大勢を見る事に気が付いたのは平家の本陣跡を見た時。源氏の本陣は何処なんだろうと思い調べて行き当たったのがこの法輪寺。
06/13/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 鞭木跡ー源平藤戸合戦ー 今は住宅地でこの地が浅い海の底であった事など想像出来ない。ブラタモリで土地の起伏からその地の歴史を確認しているが、源平藤戸合戦のあったこの地を訪問し乗り出し岩から先陣庵に至る浅瀬の位置と史跡との関係を確認出来れば面白い。
06/13/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 蘇良井戸ー源平藤戸合戦ー 高坪山の麓、御崎神社横の車1台がやっと通れる細い道をさらに奥に入った集落内にある井戸で、高坪山一帯に布陣した源氏の軍が使用したと言われる蘇良井戸。車が通れる道からさらに少し山に向けて上に登った所にある。
06/13/2016 / 最終更新日時 : 03/18/2018 桃太郎 史跡 御崎神社ー源平藤戸合戦ー 今に「源平藤戸合戦」として伝わる平氏との戦に備えて、源氏の武将、佐々木盛綱が出陣前戦勝を祈った神社。高坪山の山頂にあったのを戦後、盛綱が現在地に移したと言われている。
06/13/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 笹無山ー源平藤戸合戦ー 平家の陣を攻める浅瀬を教えたにもかかわらず、佐々木盛綱に息子を切り捨てられた母親は佐々木と聞けば笹まで憎いとこの山に生えていた笹を抜いてしまった。その後この小山には笹が繁ることはなかったと伝わる。怨念は800年後の今も続いている。
06/13/2016 / 最終更新日時 : 03/17/2021 桃太郎 史跡 先陣庵ー源平藤戸合戦ー 先陣庵からは、源平合戦藤戸古戦場を眺めることができる。前方の山の上には、くらしき山陽ハイツ(休館中)があり、その山裾付近には佐々木盛綱が海の中に馬を進めたと言われる乗り出し岩もある。山陽ハイツの展望大浴場からの古戦場の眺めも素晴しい。
06/12/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 平家本陣跡 平家本陣跡は小高い丘の上にあるので周囲の様子が良くわかる。それにしても、源氏の武将佐々木盛綱が海に馬を乗り入れたという乗り出し岩から、平家方の陣に最初に乗り込んだといわれる先陣庵との間は結構長い距離である。
06/12/2016 / 最終更新日時 : 03/17/2021 桃太郎 史跡 乗り出し岩ー源平藤戸合戦ー 県道倉敷・玉野線(22号線)くらしき山陽ハイツ(休館中)への入口より少し倉敷寄りの道路脇にある単なる石。歴史を知れば、この石の意味やこの付近の地形に興味が湧いてくる。佐々木盛綱が対岸児島の平家打倒の為、馬で漁師に教わった浅瀬に乗り出した岩。
06/12/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 経ヶ島ー源平藤戸合戦ー 藤戸寺から倉敷川のすぐ向こうに小さな森が見える。源平藤戸合戦の頃この付近は海で対岸の森も瀬戸に浮かぶ小さな島であった。この島は、佐々木盛綱が浅瀬を聞き出しその秘密を守るために殺した漁師の追悼の写経を埋めたので経ヶ島と呼ばれている。
06/12/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 佐々木盛綱像ー源平藤戸合戦ー 藤戸寺の眼下に、倉敷川に架かる盛綱橋が見える。この辺りはかっては海で、児島に陣取る平氏を攻めるのに、源氏の武将佐々木盛綱は、漁夫から浅瀬の場所を聞き、騎馬で藤戸海峡を渡って先陣をとげた。その時の雄姿を銅像にし架橋記念としている。
06/12/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 源平藤戸合戦記念碑 源平藤戸合戦が行われた倉敷市藤戸の藤戸寺横、県道22号線沿いに、源平藤戸合戦から八百年になったのを記念した記念碑が建てられており、脇には源平藤戸合戦略記が刻まれている。付近のゆかりの地を訪ね併せてその地の写真を掲載する。
06/11/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 福山城跡 新田義貞と足利尊氏の対立による南北朝時代の端緒となった備中福山合戦の地。麓には清音ふるさとふれあい広場や古墳群があり散策路も整備。山頂や途中の幸山城跡からは総社市内は勿論真備町方面、良く晴れた日には大山方面まで望むことが出来る。
06/09/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 主な庭園 備中総社宮 国道180号線沿い、jr東総社駅付近の家屋が密集した市街地の中、松が沢山植わったいかにも神社が有りそうな所を通過する。これが総社宮で備中国の祭神324柱を合祀した社。道路脇に総社宮駐車場の案内板があるのでそれに従って入れば良い。
06/08/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 吉備路ー鬼城山よりー 桃太郎伝説の鬼「温羅」の砦、標高397mの「鬼城山」は、古代山城跡としての魅力に加え、眼下の雄大な吉備の国の景色も楽しむことができる。吉備路めぐりをする前と後に後にこの地から眺めれば吉備路についての理解をより深める事が出来る。
06/08/2016 / 最終更新日時 : 05/28/2018 桃太郎 博物館・資料館 鬼ノ城山 「鬼ノ城」は、桃太郎伝説の鬼、温羅が砦としていた「古代朝鮮式山城」で現在も3kmに及ぶ石塁が残っている。駐車場に車を置き、城壁跡に沿う遊歩道を歩くと、遺跡や眼下の雄大な風景を見ながら散策を楽しむことができる。
06/06/2016 / 最終更新日時 : 06/12/2018 桃太郎 史跡 秦廃寺 高梁川の右岸、総社秦地区にある飛鳥時代に創建された岡山県最古の寺院で秦氏の氏寺とも云われている。心礎が残っているのみであるが、様々の調査結果や歴史書を読みながら当時のこの秦の地の様子を想像するのも楽しいもの。
06/05/2016 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 鷹ノ巣城跡 羽柴秀吉の備中高松城水攻めに対して、小早川隆景が陣を構えたと言われる鷹ノ巣城跡からの眺望は本当に素晴らしい。備中高松城水攻め関係地全域は勿論、吉備の国の中心部とされる吉備の中山から総社方面にかけての吉備路全体を眺めるのにも最適。
06/05/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 赤井堂地区ー日畑廃寺ー 庄新町の団地のある王墓山の北東側にまわると古くからの吉備の国の農村の雰囲気をそのままに残した日畑集落がある。そして王墓山の北東麓、集落との間には広大な寺院跡が残されている。王墓山古墳を造った子孫たちの建立した寺院跡といわれている。
06/04/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 王墓山地区ー王墓山古墳ー 倉敷市の東端、足守川の右岸、庄新町団地のある小高い丘の南部に位置する古墳群が、王墓の丘史跡公園王墓山地区。北端にある王墓山古墳を主として四つの古墳群からなっており、公園内には現在25基の古墳が残されている。
06/04/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 王墓の丘史跡公園 倉敷市の東端、足守川右岸の小高い丘に沿って大きな団地がある。この庄新町団地のある丘が王墓山丘陵で、楯築遺跡・王墓山古墳・日畑廃寺などの史跡のほか、総数60基にものぼる古墳が残されており、王墓の丘史跡公園として整備されている。
06/03/2016 / 最終更新日時 : 01/21/2020 桃太郎 史跡 楯築遺跡 吉備津神社の西方、足守川の西岸の丘の上に築かれた弥生時代末期の墳丘墓。石の楯の様なものが円形に並んでいる事から、吉備津彦の命が、鬼ノ城の温羅退治をするにあたって、この丘に防衛のための石の楯を築いたという伝説(温羅穿設=桃太郎伝説)もある。
05/30/2016 / 最終更新日時 : 03/14/2018 桃太郎 博物館・資料館 旧犬養家住宅・犬養木堂記念館 犬養木堂生家は吉備の中山からほど近く、新幹線高架横駐車場より歩いて3分(300m)程の所にある。途中、この地域の古い集落、神社などもあり、木堂が育った村内の様子もしのぶことができる。途中に木堂記念碑、木堂の墓などもある。
05/30/2016 / 最終更新日時 : 11/01/2016 桃太郎 史跡 惣爪塔跡 足守川の東岸近くの田んぼの畔にある。田んぼの中の穴の穿たれた石が何故、昭和3年といった早い時期に国の史跡に指定されたのか?その歴史を知らないと分からないが、この石の背後にある歴史に想いを寄せ色々と想像してみるのも楽しいもの。
05/30/2016 / 最終更新日時 : 10/09/2020 桃太郎 史跡 造山古墳 造山古墳は、長径350m~360mの前方後円墳。履中天皇陵に次いで全国第4位の規模を持ち、上・中・下の三段の墳丘をつくり、埴輪円筒列をめぐらせてあった。付近の6基の小古墳と共に国の史跡に指定されている。6基のうち千足古墳の石室には、直弧紋様の装飾彫刻を施した槨障がある。
05/29/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 雪舟誕生地碑 雪舟誕生の地碑は、岡山自動車道の岡山総社IC近くの赤浜にある。赤浜は岡山に伝わる桃太郎伝説の中心地矢喰岩近くで、矢喰岩は鬼が住んでいたと伝わる鬼ノ城と鬼退治をした桃太郎(吉備津彦命)が祀られている吉備津神社との中間付近にある。
05/29/2016 / 最終更新日時 : 05/28/2018 桃太郎 史跡 作山古墳 備中国分寺の西方に県下第2位、国内第9位の作山古墳がある。一見この付近に多く見られる丘陵と変わらないので注意しないと見落とす。造山古墳同様立ち入ることがでる古墳。墳丘の東・南方向には農村集落があり、西方に駐車場がある。
05/28/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 井山宝福寺 高梁川が大きく迂回した所、秋葉山のふもとにあるこの臨済宗東福寺派の禅寺は、画聖雪舟が幼い頃この寺で修行してねずみの絵を描いたエピソードで有名。妻側に入口のある妻入りの庫裡と朱色優美な姿の三重塔が印象的。
05/26/2016 / 最終更新日時 : 06/14/2018 桃太郎 史跡 湛井十二ヶ郷用水 国道180号線より宝福寺へ入る道路から高梁川方面を見ると真横に大きな井堰が見える。この井堰は平安時代末期の平氏の武将妹尾太郎兼康により改修されたと伝えられており十二箇郷六十八ヶ村(現三市)の約5,000haの田畑を潤してきた。
05/26/2016 / 最終更新日時 : 11/01/2016 桃太郎 史跡 備中国分尼寺跡 聖武天皇が鎮護国家の考えの下に国分寺と国分尼寺の建立を命じて造られた奈良時代の尼寺跡。平たい松林の中に円形の柱座や地覆座のある金堂の礎石が往時のままに良く保存されている。その他、南大門、中門、講堂、塔の跡なども確認されている。
05/25/2016 / 最終更新日時 : 05/28/2018 桃太郎 史跡 こうもり塚古墳 自然の丘陵を利用して造られた全長約100mの前方後円墳。後円部にある横穴式石室は巨石を用いた全長19.5mに及ぶ巨大なもので、中には家形石棺が安置されている。築造年代は6世紀後半。吉備路風土記の丘の一角にあり散策には最適。
05/25/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 備中国分寺跡 聖武天皇の発願によって全国に創建された国分寺の一つである。建物は南北朝時代に焼失したと伝えられ、現在の建物は江戸時代中期以降に再建された。境内にそびえる五重塔は県内唯一のもので吉備路の代表的な景観となっている。
05/24/2016 / 最終更新日時 : 04/22/2021 桃太郎 史跡 吉備の中山 備津神社や吉備津彦神社の背後には、古くから吉備の中心に位置し、人々から崇められていた吉備の中山がある。歴史や自然に興味の或る方は、健康作りも兼ねて吉備の中山を散策することをお勧め。数多くの桃太郎伝説が残る吉備の歴史や自然をより深く理解するよい機会となるでしょう。
05/23/2016 / 最終更新日時 : 04/22/2021 桃太郎 史跡 藤原成親遺跡 大納言藤原成親は、僧俊寛らと共に平家打倒を誓った”鹿ヶ谷”の密議が露見、平清盛により治承元(1177)年下津井に流され、後吉備の中山有木の別所に移されこの地で非業の最後を遂げた。高麗寺の山門跡の礎石や成親の墓などが残っている。
05/22/2016 / 最終更新日時 : 04/20/2021 桃太郎 史跡 中山茶臼山古墳 古代吉備の国の時代、人々から崇められてきた「吉備の中山」の山頂付近にある全長120m程の中山茶臼山古墳は、4世紀初頭の築造で四道将軍として大和から派遣され吉備の国を治めた大吉備津彦命の墓と呼ばれる前方後円墳。
05/19/2016 / 最終更新日時 : 04/17/2021 桃太郎 史跡 備中高松城水攻めの舞台ー備中高松城跡ー 備中高松城水攻めは、今から約400年前の天正10年(1582年)、織田信長より毛利攻略の命を受けた羽柴秀吉が備中国南東部に侵入、毛利方の諸城を次々と攻略すると共に、3万の大軍をもって備中高松城を攻めるに当たって行った奇策。
05/14/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 栄西禅師生誕地 臨済宗の開祖として、また中国から日本に茶の種を持ち帰り茶を広めた茶祖として仰がれる鎌倉時代の高僧栄西禅師は、吉備津神社の神官賀陽氏の出。吉備津神社から徒歩で5分程の栄西禅師生誕地とされる所に2014年3月庭園が整備された。
05/14/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 妹尾太郎兼康公墓 妹尾太郎兼康公は備中妹尾の豪族で平氏の家人として数多くの武功をたてると共に農業にも深く意を注ぎ領内においては新田を開発し嘉永元年には十二ヶ郷用水の取水口である湛井井堰を開設するとともに、用水路の整備をしたとされている。
05/12/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 緒方洪庵誕生地 江戸時代末期に蘭学者として天下に名をはせた緒方洪庵(1810~1863)の誕生地。現在は銅像、顕彰碑の建てられた宅地と古井戸が残っているのみ。足守の町並み保存地区から足守川の大井橋を渡って細い路地を越えた先の山裾にある。
05/12/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 大光寺 近水園から少し離れた山麓にある足守藩主木下家の菩提寺で、藩主の遺筆など貴重な資料も数多く納められ、御霊屋(みたまや)には秀吉、北の政所そして木下家代々藩主の位牌が安置され、足守の歴史を見つける事の出来る由緒ある寺院。
05/11/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 旧足守藩木下家陣屋跡 足守侍屋敷から足守小学校横の利玄道を通って、近水園に行く時左側に芝生の公園がある。何もないので見過ごしがちだがこれが、旧足守藩の陣屋跡。良く見ると周囲が濠で囲まれておりまた利玄生家ともかってはつながっていたとの説明もある。
05/11/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 木下利玄生家 旧侍屋敷から近水園に行く途中、利玄通りに入ると左側の広い空地(足守陣屋跡)に続いて利玄生家の長屋門が見えてくる。利玄生家は週末と祝日など限定された日にしか公開されないが嘉永年間に建てられた時の様相が良好に残されている。
05/07/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 吉備大臣産湯の井戸 矢掛町の東端に近い所、旧山陽道(現国道486号線)の北側、吉備真備公の居館跡と伝わる地に造られた吉備真備公園の南西の隅、一段低い所に井戸がある。この井戸が吉備真備公が産湯を使った井戸と言われている。
05/01/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 琴弾岩 国道486号線の倉敷市真備町から矢掛町への境界付近の小田川を隔てて対岸、猿掛城への登り口付近にある河畔の岩。真備町側だと琴弾橋(ことひきばし)、矢掛町側では福頼橋(ふくよりばし)を渡ると丁度両橋の中間付近やや真備町寄りにある。
04/28/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 吉備公館址 吉備公産湯の井戸から50m程南の道路脇に吉備公館址と刻まれた石碑とその隣に何故かラテン語で書かれた石碑が建っている。この付近は吉備真備の父下道圀勝氏の館が有った跡あるいは吉備公の御家人の子孫が住んでいた跡ともいわれている。
04/28/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 吉備真備公産湯の井戸 この地は小田川の支流子洗川の上流にあり、かって吉備公の御館があったといわれている。この井戸は真備公が生まれた時産湯に使われた井戸とされ真備が生まれる前夜にはこの井戸に星が落ちたとも伝えられている。
04/28/2016 / 最終更新日時 : 05/28/2018 桃太郎 史跡 箭田大塚古墳 6世紀後半~7世紀の築造と見られる横穴式古墳で石室には巨石が用いられている。玄室の3基の石棺の内2基は追葬されたもので、明治34(1901)年の調査時に須恵器、土師器、刀剣、馬具や金環、勾玉などが多数発見された。
04/28/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 吉備公廟 まきび公園の南側の丘陵上、通称「吉備さま」と呼ばれる神社の拝殿奥に祀られており、勉学・文教・書道など学問の神様としても信仰を集めている。まきび公園側の参道の石段からは、まきび公園と吉備寺を眺めることが出来る。
04/23/2016 / 最終更新日時 : 03/15/2018 桃太郎 史跡 四ツ塚古墳群 津黒高原方面から国道482号線で蒜山高原に入って間もなく右側に黒松の並木が見えてくる。この松並木の右側蒜山郷土博物館の近くには16基の円墳があり、内4基を”四ツ塚”と呼び四ツ塚古墳群と名付けられ国の史跡となっている。