山田方谷ー閑谷学校ゆかりの人ー
文化2(1805)年現高梁市中井町西方で生れる。5歳から儒学を学び、松山藩士、藩校有終館会頭を経て京都や江戸へ遊学、帰藩後は校有終館学頭となる。藩主の命により藩政改革をした後は老中首座として幕府の政治を担当。明治6年、閑谷学校の再興を請われ、その再興に尽力する。
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名称 | 山田方谷(やまだ ほうこく)(1805~1877)ー閑谷学校ゆかりの人ー |
役職 | 幕末・明治の政治家 教育者 |
略歴 | 文化2(1805)年現高梁市中井町西方で生れる。
五歳で新見藩の丸川松隠に儒学を学び、神童と称されるほど優秀であった。 文政8(1825)年松山藩士となり、同12(1829)年には藩校有終館会頭(教頭)、 また、藩主板倉勝静(かつきよ)の命を受けた藩政改革を成功させ、勝静が老中首座として 明治元(1868)年松山城を無血開城させた後は、長瀬塾(高梁市)や 明治6(1873)年当時閉鎖されていた閑谷学校の再興を請われ、直接講義に来たり、 幕末から明治にかけて活躍した三島中洲、河井継之助は弟子。明治10(1877)年没。 |