備前陶器窯跡伊部南大窯跡

伊部南大窯跡

伊部南大窯跡

桃山時代から江戸時代にかけて、備前焼の同業者が共同で使用した大窯で、山麓の傾斜地に、東窯・中央窯・西窯と三基の長さ30mから60m、幅2mから3mに及ぶ半地下式の登り窯を築いている。

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名称  国指定史跡 備前陶器窯跡伊部南大窯跡 昭和34年5月13日指定
所在地  〒705-0001 備前市伊部
TEL  0869-64-2885 備前市観光協会
概要  備前焼は、平安時代の終わりごろから現在まで約千年の歴史を持つ、その最盛期に当たる
桃山時代から江戸時代の様相を物語るのがこの南大窯跡である。

南大窯跡は、北大窯跡、西大窯跡と並んで共同窯として使用されていたもので、東窯跡・
中央窯跡・西窯跡の三基の窯とそれらに伴う巨大な物原(ものはら)(破損品や窯道具を
捨てた場所)から成っている。

最大の東窯跡は、全長約54m、幅約2.3m、西窯跡は全長約31m、幅約2.8mと
やや小形である。

二基とも床面を少し掘り下げた上に天井を架けてトンネル状にした構造で、天井を支える
ために土柱が設けられていた。

この窯では、一回の焼成に薪15,000~16,000貫(約56~60t)を焚き、
製品34,000~35,000千個を34~35日かけて焼いていた。

この窯跡で焼かれた製品は壷・甕(かめ)・擂鉢(すりばち)・徳利などの日常雑器類が主で、
4石(約720リットル)入りの大甕のような大形品も見られる。

それらの他に茶器・花器も焼かれていて、特に桃山時代の製品は美術的に高く評価されている。

平成22年3月 文化庁 備前市教育委員会(現地案内板)

歴史 備前焼の歴史と南大窯

備前焼の歴史は、平安時代の終わりごろ伊部の地に須恵器工人が移住して窯を築いたことに
始まる。

鎌倉時代になり、日常の容器として実用性のある強靭な陶器が求められるようになると
備前焼は壷・甕(かめ)・擂鉢(すりばち)を大量に生産するようになる。

壷・甕の口縁も、玉縁となるなど備前焼の特徴を示すようになる。

その流通圏は飛躍的に広がり、室町時代後半には畿内を中心にしてほぼ全国に運ばれている。

このころには共同窯である大窯で生産されるようになるが、桃山時代になると南・北・西の
三大窯に集約されることになる。

その製品の多くは壷・甕・擂鉢などの日常雑器類で、現在残る物原からみてもその生産量の
多さがうかがわれる。

やがて備前焼は素朴な焼味が茶人に注目されるようになり、茶会で用いられ多くの名品が
生まれた。

でも桃山時代の製品は美術的に高く評価されている。

江戸時代になると、この南大窯は北・西大窯とともに岡山藩の管理下で生産されるように
なり、天保年間(1830~1843)には小型の融通窯(天保窯)が築かれ、やがて大窯の時代は
終わった。

平成16年2月 文部科学省 備前市教育委員会(現地案内板)

交通  JR赤穂線伊部駅より徒歩約5分、

山陽自動車道備前ICより車約10分、JR伊部駅前観光駐車場より、徒歩約8分、

山陽自動車道和気ICより車約15分、JR伊部駅前観光駐車場より、徒歩約8分

駐車場  有り

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