啓運山盛隆寺

盛隆寺本堂

盛隆寺本堂

庭瀬領主戸川達安公の妹君が、嫁ぎ先の宇喜多家で亡くなられたのを母堂の妙承尼(常山城主友林院殿の室)が嘆き、悲しまれ、新しくお寺を建てて姫君の冥福を祈ってやろうと思いたたれ、達安公も又、妹君の死を哀れむと共に、ご母堂の心のうちを察してその願望を叶えてあげよう当山を開創、日鳳上人を開祖に迎えて啓運山盛隆寺と名付けた。

Sponsored Link



庭瀬藩主戸川家墓所

庭瀬藩主戸川家墓所

庭瀬藩主戸川家墓所

庭瀬藩初代藩主戸川達安はじめ戸川家歴代の墓地。達安は宇喜多秀家の家臣だったが、宇喜多家のお家騒動で徳川家康の家臣となり、関ヶ原の戦いでは東軍として活躍、庭瀬藩主となる。

盛隆寺仁王門

盛隆寺仁王門

啓運山盛隆寺仁王門

現在のものは宝暦12(1761)年日領上人の代に改築されたものである。なお、仁王像は日蓮宗にはないもので、これは、この寺が真言宗であった当事のものである。

妹尾太郎兼康頌徳碑

妹尾太郎兼康頌徳碑

妹尾太郎兼康頌徳碑

妹尾太郎兼康公(1126~1183)は、平家物語にもでてくる備中国妹尾郷の平家武将で、ここ妹尾にある州浜城を築き、数多くの武功をたてたとされている。

名称  啓運山 盛隆寺(けいうんざん じょうりゅうじ)
所在地  〒701-0205 岡山市南区妹尾1751
TEL  086-282-4367
宗派  日蓮宗
ご尊像  日蓮聖人御尊像
創立  慶長10(1605)年4月8日
開基  庭瀬領主 肥後守達安公
開祖 城国院日鳳上人
由緒 庭瀬の領主戸川達安公の妹君は、備前宇喜多忠家の嫡男左京亮詮家に嫁がれたが、
不幸にして亡くなられた。

母堂の妙承尼(常山城主友林院殿の室)は大変嘆き、悲しまれ、新しくお寺を
建てて姫君(真了院殿妙円大姉、慶長8年10月1日逝去)の冥福を祈って
やろうと思いたたれた。

達安公も又、妹君の死を哀れむと共に、ご母堂の心のうちを察してその願望を
叶えてあげようと思いたたれ、三千余坪の土地を寄付して、当山を開創して、
日鳳上人を開祖に迎えて啓運山盛隆寺と名付けた。

昔この地方は、殆んどが真言宗だったが、戸川公の勢威と開祖の徳化によって寺も
檀家も改宗させて、所謂「妹尾千軒皆法華」の基礎を築いた。

それ以来三百八十余年である。

今日、大坊、上寺、今寺、善性寺などの地名が残っているのは、真言宗時代の
各寺院の旧跡である。啓運山 盛隆寺(現地案内板)

行事 1月1日~3日ー元三御祈祷会、

2月14日ー釈尊涅槃会、

2月16日ー宗祖降誕会、

春・秋の彼岸の中日ー彼岸施餓鬼、

4月8日ー釈尊降誕会、

4月28日ー宗旨建立会、

8月7日ー七日日(七夕まつり)、

8月16日ー盆施餓鬼、

11月22日・23日ー宗祖御会式

交通  JR瀬戸大橋線妹尾駅より徒歩約7分、

早島ICより車で約15分

駐車場  ー

Sponsored Link



菩提樹ー啓運山盛隆寺境内ー

菩提樹

啓運山盛隆寺菩提樹

29歳で出家、修行をかさね、35歳で宇宙人生の真理を、インド・ブッダガヤの樹下でさとられ仏陀となられたお釈迦さま。以来、樹下石上を住いとし、教化、説法を続けられ80歳で入滅されたと伝えられる。この樹下が菩提樹。

安祥院本堂

安祥院本堂

啓運山安祥院

啓運山盛隆寺の塔頭の一つであったが、日蓮宗は昭和16年に本山と末寺の関係を解体したため、現在では旧本山、旧末寺と呼んでいる。盛隆寺の境内の南西部県道152号線沿いに位置する。

善立院本堂

善立院本堂

啓運山善立院

啓運山盛隆寺の塔頭の一つであったが、日蓮宗は昭和16年に本山と末寺の関係を解体したため、現在では旧本山、旧末寺と呼んでいる。盛隆寺の境内の南西部、安祥院の裏側に位置する。

本堂ー啓運山知應院ー

知應院本堂

啓運山知應院

啓運山盛隆寺の塔頭の一つ。盛隆寺の境内の南東部、浄園院の裏側に位置する。日親堂には久遠成院日親聖人(応永14(1407)年~長享2(1488)年)の木造をお祀りしている。

浄園寺山門

浄園寺山門

啓運山浄園院

啓運山盛隆寺の塔頭の一つであったが、日蓮宗は昭和16年に本山と末寺の関係を解体したため、現在では旧本山、旧末寺と呼んでいる。盛隆寺の境内の南東部、県道152号線沿いに位置する。

観行院

観行院

西磯山観行院

啓運山盛隆寺の塔頭の一つであったが、日蓮宗は昭和16年に本山と末寺の関係を解体したため、現在では旧本山、旧末寺と呼んでいる。元は盛隆寺の境内であったであろうが現在では街並みの中の寺となっている。

Follow me!