庭瀬城跡

庭瀬城跡

庭瀬城跡

庭瀬城は室町時代の末頃に備中松山の三村元親が、備前宇喜多氏の侵攻に対する固めとして築いた城であるが、江戸時代の慶長7(1602)年には、宇喜多の重臣戸川達安が入城し城を拡張して城下町を整備した。その後4代目藩主が早世、戸川家は断絶、改易となり、元禄12(1699)年になって板倉氏の居城となり、板倉氏で明治を迎える。⇒ 備中高松城水攻め

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名称  庭瀬城跡
所在地  〒701-0153 岡山市北区庭瀬822番地先
TEL  086-293-1111 岡山市吉備支所
概要  室町時代の末ごろ(約400年前)備中松山の三村元親は備前の固めとしてこの地に築城した。

附近の地名から芝揚(こうげ)城とも呼ばれた。

一帯は泥沼地でひじょうな難工事であった。

その後宇喜多の重臣戸川肥後守達安がはいり(1602年)古城を広げ城下町を整えた。

元禄12(1699)年板倉氏の居城となり明治を迎えた。

自然石の石垣をめぐらした堀もよく残り、沼城の典型を示している。

寛政5(1793)年板倉勝善は城内に清山神社を建て板倉氏中興の祖重昌、重矩父子を祭り
歴代の遺品を収蔵した。(遺品は現在、吉備公民館に収蔵)(現地案内板)

高松城水攻めと庭瀬城、

天正10(1582)年の羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際、毛利方の防衛ラインとされた
備中七城の一つ。

時の城主井上有景は毛利氏の撤退命令にも従わず秀吉軍と戦ったとされている。

ハスの見所  大賀ハス200株、花季6月下旬~8月中旬、

約200年前の古代ハス「大賀ハス」を咲かせた大賀一郎先生の出身地。

大賀一郎先生の咲かせた「大賀ハス」が、庭瀬城跡内濠の7つの升に植えられている。

大賀一郎 大賀一郎博士 岡山市川入(小西)出身(明治16年~昭和40年)(1883年~1965年)

植物学者 吉備町名誉町民 岡山中学校 ⇒ 一高 ⇒ 東大植物学科卒業、

第八高等学校教授を経て南満州鉄道株式会社教育所に勤め普蘭店から古代蓮の実を
採集発芽に成功、理学博士となる。

帰国後、昭和27年(1952)千葉県検見川の泥炭層から約2000年前の古蓮実を発掘その
発芽に成功。

この蓮を大賀ハスと命名されました。岡山市後楽園に保存栽培されています。

時あたかも岡山城築城400年に当たり、庭瀬城跡保存会・吉備地区地域活性化推進
実行委員会が連携し、この濠堀に大賀ハスを先生のふるさとに開花させることにしました。

淡紅色の花ビラが緑の葉の間にゆらぎ訪れる人々の目を楽しませてくれることを願って
おります。

先生の言葉   蓮は平和の象徴なり 平成10年2月吉日
吉備地区地域活性化推進実行委員会 庭瀬城址保存会(現地案内板)

交通  JR山陽本線庭瀬駅より徒歩約5分、

山陽自動車道倉敷ICより車で約30分

駐車場  有り

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