南海岸ー大多府島ー

南海岸

大多府島は、決して大きな島ではないが、日生港から約30分の船旅を楽しみ、元禄防波堤や六角井戸を見て約300年の歴史を振り返ると共に、明るい瀬戸内の島の風景に触れることが出来る素晴らしい島。特に、宮の下海水浴場から勘三郎洞窟あたりまでの海岸沿いの自然研究路がお勧め。

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元禄防波堤

元禄防波堤

元禄防波堤

元禄10年薩摩の津島公が台風で大多府島に避難、江戸にて池田綱政公に大多府の良港ぶりを説き割譲を申し込むと、綱政は一年足らずで港湾設備を整備開港した。この時の防波堤が「元禄防波堤」として当時の威容を誇っている。

自然研究路ー大多府島ー

自然研究路

自然研究路

大多府港東側を出発点として、島の海岸沿いに東から南、西へと回り込んだ、自然と親しみ、生物や植物を観察しながら歩ける海岸線散策路である。特に、南岸は、海水による浸食が著しく、至る所に奇岩奇石、断崖絶壁がみられる。

加子番所

加子番所

大多府加子番所

加子とは水夫のことで、加子番所は、岡山藩政時代の水夫の詰め所。幕府の用船への飲料水の供給、諸侯の船が風待ちなどで入港した時に、在番役人が港内にいる船を引き連れてご機嫌伺いに行くなどのためにこの番所が置かれていた。

名称  大多府島
所在地  〒701-3203 備前市日生町大多府島
TEL  0869-72-1919 日生町観光協会
概要  元は大漂(おおとう)といわれていた。日生本土方から約6km。

日生諸島のうち最も沖合にあり、瀬戸内海国立公園に属している。

南海岸は風波の海蝕により奇岩絶壁を成し、諸島随一の景勝を誇っている。

周囲は約5km、面積は0.4平方キロ。

元禄10年(1697)9月、薩摩の国守、島津京信が参勤交代のため航海中、にわかに暴風
にあいこの島に避難して無事であった。

島津侯は「この島を譲ってほしい」と備前藩主、池田綱政に申し入れた。

池田藩では、領地内にこのような避難港があることをはじめて知り、津田永忠
に命じ元禄11年(1698)に防波堤を築造して開港した。今から約300年前である。

開港と同時に在番所、加子番所を置いて管理にあたり、幕府の用船、諸侯の船舶に給水したり
海難救助の仕事にあたり、燈籠堂を設けて航海の便に備えるなど港の施設を整備した。

元禄12年に2棟、同14年に4棟の長屋を建築して島への移住を奨励し宝永4年(1707)頃
から定住が始まった。

開港後120年たった文化14(1817)年には26軒の集落となっていた。

その後、天保年間には家数は33軒あり元治元(1864)年には人口444人にもなった。

明治22(1889)年、町村制施行により日生と合併した。(現地案内板より)

交通  JR赤穂線日生駅より日生港まで徒歩約10分、日生港から大生汽船30分、大多府港下船、

岡山ブルーライン備前IC日生港まで車約10分、日生港から大生汽船30分、大多府港下船、

駐車場  普通車50台(日生港)

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六角大井戸跡

六角大井戸跡

元禄11(1698)年大多府港の開港と同時に作られたと伝えられる大多府唯一の井戸である。この井戸は開港以来水道開設まで、最盛時島民1,000人と16ヘクタールの耕地をまもり伝えてきた250年の歴史をもっている。

宮の下海水浴場

宮の下海水浴場

宮の下海水浴場

かぜまちの島、大多府島。島の南側は浸食作用による海岸線が変化に富み美しい。海水浴場は、小さいながら港から近くて便利。左に見えるのは夫婦岩。この付近では潮干狩りも可能で海水浴シーズン以外でも浜辺を楽しむことができる。

ふれあいの館「かぜまち」

ふれあいの館

ふれあいの館「かぜまち」

民家風建物「かぜまち」は、太陽と緑がいっぱいの大多府島で漁村型リゾートを楽しむ宿泊施設。ここを拠点に、海水浴・潮干狩り・磯釣り・底引き網・自然散策など四季を通じて漁村型リゾートを堪能することが出来る。

大多府燈籠堂

大多府燈籠堂

大多府燈籠堂

大多府燈籠堂は、岡山藩池田綱政公治世の正徳4(1714)年に建立され、明治初年まで約150年間にわたり沖合を行く船の目じるしとして、燈明が入れられた。今般昭和61年3月当時の台石の上に記念塔として再建されたものである。

勘三郎洞窟ー大多府島ー

勘三郎洞窟

勘三郎洞窟

大多府島の南海岸にある海蝕洞で、昔勘三郎という男が洞内で贋金を造り、深夜タライに乗って陸地に渡り金を使っていたと伝えられている。洞窟の奥行は80mで、入口は巾3m、高さは20m、狭いけれども天井の高い洞窟であった。

大生汽船ー大多府港ー

大生汽船

大多府港

元禄10年、薩摩藩主島津公が暴風に会い大多府島に避難する事ができた。備前藩主池田綱政公に島を譲ってほしい旨申し入れたことをきっかけに、港が整備され現在まで続いてきた。中心となる防波堤は「元禄防波堤」と呼ばれている。