湯迫山浄土寺

湯迫山浄土寺

湯迫山浄土寺

奈良時代の天平勝宝元(749)年、報恩大師が備前国に創立した四十八ヶ寺の内の一つで、東大寺の再建を命じられた僧 重源が、東大寺の修理料国として与えられた備前国において、国務のかたわら浄土教を広めた寺の一つとして知られている。重源が庶民施療のために設けた大湯屋跡があり、一帯からは「東大寺」の刻印のある瓦が発見されている。

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名称  岡山県指定史跡 湯迫山 浄土寺 昭和34年3月27日指定
所在地  〒703-8202 岡山市中区湯迫699
TEL  086-279-1150
宗派  天台宗
創建 報恩大師(孝謙天皇の勅願による)
本尊 薬師如来
概要 当寺は湯迫山浄土寺と称し、薬師如来を本尊とする天台宗の寺院である。

寺伝に「天平勝宝元年長勅命によって報恩大師備前国中に48寺を創立す。
当寺はその一寺なり」とあり、古刹として古くから知られていた。

寺域は狭められているが、周囲に残る字名等から一帯はかって多くの寺坊が建ち並ぶ
大寺であったとみられる。

現在の寺は、南面して、江戸中期の建立と見られる本堂を始めとして、鐘楼、庫裏、客殿
などを構え、往時を忍ぶことが出来る。

寺域の一角には、鎌倉初期、俊乗坊重源(ちょうげん)が庶民施療のために設けた大湯屋
関係すると言われる泉があり、山名の起源に関わるとみられる。

事実、一帯からこの頃の瓦が発見される。

瓦は重源が再建した奈良の東大寺と同じ型式のもので、軒側面に「東大寺」と刻印された
ものがある。

重源は、平重衡によって焼かれた東大寺の大勧進としてその造営料国となった備前国に
数年の間赴き、国務を司るかたわら社会事業にも尽力した。

また、本堂南方の山中には、天文18(1549)年に建立された豊島石製の三重の塔があり、
銘文から願主秀英が妙典1,000部を埋納した経塚の上に建てたことが知られる。

なお、境内の東側には、浄土寺の鎮護神として祀られていた日吉神社が、また、
寺より80m程西の竹林の中には、平清盛によって備前に流された、関白 藤原基房
の配所と伝えられる場所がある。

   平成4年3月 岡山市教育委員会(現地案内板)

ご利益 厄除け、眼病平癒、家内安全、身体健全ほか
交通  JR岡山駅より車で約25分、または四御神行バス30分、浄土寺前下車徒歩約3分、

山陽自動車道山陽ICより車で約15分

駐車場  普通車10台

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伊木氏玄蕃頭幸賢之墓

伊木氏玄蕃頭幸賢之墓

伊木氏玄蕃頭幸賢之墓

伊木家岡山藩家老三万石、分家伊木日向の二代目、寛永19年跡目相続をし番頭をおおせつかる。延宝2年病死、主家池田家の安泰を願って岡山城の鬼門にあたる竜の口山麓湯迫の地に埋葬されたと言い伝えられている。

延寿の椿ー湯迫山浄土寺ー

延寿の椿

延寿の椿

天明年間、浄土寺の客殿・庫裡が再建された頃植えられたと伝わる。紅白のめでたい寄植椿で、名前の由来は鎌倉初期に奈良東大寺再建の大勧進として活躍の重源上人の延寿と椿の長寿とを相結び元岡山市長により命名された。

備前国府大湯屋址石碑ー重源上人遺跡ー

備前国府大湯屋址石碑

備前国府大湯屋址

浄土寺の一角にある源泉の周囲に、鎌倉時代初期に東大寺の再建のために備前国に赴いていた俊乗坊重源が、庶民の施療のために設けたといわれる大湯屋の跡があり、この一帯からは、「東大寺」と刻印された瓦が発見されている。

日吉神社

日吉神社

湯迫日吉神社

天台宗の湯迫山浄土寺の境内に西に向かって祀られている旧湯迫村の氏神様。比叡山延暦寺とその鎮護神としての日吉神社の関係同様、浄土寺の鎮護神として祀られたのが始まりと思われる。明治時代の神仏分離令により分離。

史跡関白屋敷跡

史跡関白屋敷跡

史跡関白屋敷跡

関白藤原基房の配所跡。基房は関白藤原忠通の二男として生れ、承安2年関白となるも、兄基実の遺領相続をめぐって清盛と対立、後白河法皇の後楯を得て反平家政策をとった為、清盛の怒りをかい治承3(1176)年に湯迫に流された。

最明院

最明院

最明院

もと浄土寺の境内にあったと伝わる。鎌倉幕府、執権北條時頼が職を退き最明寺に閑居、諸国を行脚した時「見明院」と呼ばれていたこの院に立ち寄ったことから最明寺入道時頼公の名に因み”最明院”と呼ぶようになった。

浄土寺周辺案内図

浄土寺周辺案内図

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