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本丸跡ー備中高松城ー

本丸跡ー備中高松城ー

高松城水攻略史(現地案内板-黒田官兵衛の献策)
今から約400年前の天正10年(1582)、織田信長の命を受け羽柴秀吉は、備中国南東部に侵入し毛利方の諸城を次々と攻略するとともに、3万の大群をもって備中高松城を攻めた。
秀吉は高松城の城主清水宗治に利をもって降伏するよう勧めたが、義を重んじる宗治はこれに応じなかった。
高松城は深田や沼沢の中にかこまれた平城で水面との比高がわずかに4mしかなく、人馬の進み難い要害の城であった。
秀吉は参謀黒田官兵衛の献策に戦史にも稀な水攻を断行し、兵糧攻めにした。秀吉は、備前国主宇喜多氏の家臣千原九衛門勝利を奉行とし、3千mに及ぶ堤もわずか12日間で完成させた。
時あたかも梅雨の頃で、増水した足守川の水を流し込み、たちまちにして188ヘクタールの大湖水ができ、城は孤立した。
8月2日の未明、京都本能寺で信長は明智光秀に討たれた。
秀吉はこれをかたく秘めて毛利方の軍師、安国寺恵瓊を招き「今日中に和を結べば毛利から領土はとらない。
宗治の首級だけで城兵の命は助ける」という条件で宗治を説かした。宗治は「主家の安泰と部下5千の命が助かるなら明4日切腹する」と自刃を承諾した。
時に8月4日巳の刻(午前10時)湖上に船を漕ぎ出し、秀吉から贈られた酒肴で最後の宴を張り、誓願寺の曲舞を舞い、「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」と辞世の歌を残して48歳を一期として見事自刃した。
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