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天正10年6月4日 「浮世をば 今こそ渡れ武士の名を 高松の苔に残して」
と辞世の句を詠じて自刃せられたる、高松城主清水長左衛門宗治公の至誠を後世に伝え、怨親平等正邪一如の見地より、両軍戦没者の霊を併せ弔らはんが為め、瀬野妙光大法尼は十方有縁の士を結集して、昭和38年5月8日此の地に大供養塔を建立し、開眼法要を営む。
茲に大法尼の遺徳をたたえ後孫及び同志相はかり顕彰碑を建立しその業績を誌して碑文となす。
昭和52年11月吉日
当山第15代慈玄院日詔(現地顕彰碑より)
この供養塔が建てられたのは、高松知行所の旗本花房氏の菩提寺 妙玄寺の境内であった所。
現在妙玄寺の本堂は無いが近く建立される予定とのこと。
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