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蛙が鼻築堤跡ー備中高松城水攻めー

蛙が鼻築堤跡ー備中高松城水攻めー

中国の役
中国の役は、天正10年(1582)の中国地方の大大名となっていた毛利氏と、天下人を目指す織田氏との軍事対決で、備中国の東南部(現岡山市西部)において本格的な会戦が展開された。
織田軍は、羽柴(後に豊臣)秀吉を大将とする2万と備中国の戦国大名宇喜多家の1万を合わせた兵力で、毛利氏が領国東端のこの地一帯に整備していた境目(さかいめ)7城の攻略を行った。
7城の内4城は攻略されましたが、中核をなした高松城は攻撃によく耐え、小早川隆景を対象とする毛利軍も南の日差山(ひさしやま)一帯に布陣して、なかなか勝負がつきませんでした。
折りしもこの合戦に出馬途中の織田信長が本能寺の変で急死したため、羽柴秀吉は、高松城主清水宗治の切腹開城と毛利氏の高梁川以西への撤退を条件として休戦を成立させ、この合戦は終わりました。

備中高松城水攻め
天正10年[1582)の中国の役では、毛利氏の東部の防衛線であった宮路山(みやじやま)城・冠山(かんむりやま)城・高松城・鴨庄(かものしょう)城・日幡(ひはた)城・庭瀬城・松島城の境目7城内、織田軍の大将羽柴秀吉の攻撃で宮路山城・冠山城・鴨庄城・日幡城の4城が落城した。
こうした戦況で、防衛線の中核をなした高松城は、沼地に築かれた城地の特性を生かして籠城戦(ろうじょうせん)に徹し、善戦していた。
攻めあぐねた秀吉は、城地の要害をなしている沼地を逆手に取って、城を遠巻きにして堤防を築き、折りからの梅雨を利用して水攻めにした。
城は人造湖に浮かぶ孤島となり、城主清水宗治と将兵5千名は兵糧攻めでの飢えと、城地の大半が水没する防ぎようのない苦戦に追い込まれた。

周辺の関連遺跡
蛙ヶ鼻(かわずがはな)築堤後の丘陵上には黒田、その尾根続きの石井山山頂には秀吉の本陣、高松城に向く石井山の尾根先端には堀尾、蜂須賀等、秀吉や有力武将の陣地跡が残っている。
東側に少し離れた鼓山(つづみやま)の山頂には、三段構えで馬場を伴う羽柴秀長(秀吉の弟)の陣地跡が良好に残っている。
また、高松城跡の北側の丘陵一帯には、宇喜多・浅野・生駒・加藤等の各武将の陣地跡、さらに稲荷境内の前面には秀吉の始めの本陣跡が残存している。
一方、1㎞程南西側に離れて足守川を隔てた日差山一帯には、山頂の小早川隆景本陣跡を始めとして、高松城側に向かう各尾根先には、来島(くるしま)・杉原・細川・小田・井上・木原・吉川等の毛利軍各武将の陣地跡が残っており、蛙ヶ鼻に対峙(たいじ)する天神山では毛利軍の陣地跡が発掘されている。(現地案内版より)
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