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池田輝政の墓

池田輝政の墓

池田輝政・・・・・・信輝の次男 母は荒尾美濃守善次の娘、
1564年(永禄7年)12月30日~1613年(慶長18年)1月25日、
姫路52万石の藩主、
幼名は古新、後に三左衛門、戦国末期の武将、摂津国花熊に初陣を飾り、以後小牧・長久手の戦い、紀州粉河・根来攻め、九州征伐、小田原北条攻め、会津上杉攻め、関が原合戦と歴戦の功あって姫路に封ぜられて後、西国の将軍と人々から畏敬せられ、一族の禄高合わせて100万石を超す大大名となり、従三位(三品)に叙された。
初め中川清秀の娘と結婚し利隆をもうけたが、病弱のため離別し、後に徳川家康の娘督姫と結婚。
姫路城で中風逝去。
年50歳。播州金谷で荼毘にふし、初め竜峯寺に埋葬ったが、後京都妙心寺護国院に遷し、さらに1667年(寛文7年)閏2月和意谷敦土山に遺骸を遷葬した。 
墓表、
篆額(てんがく)は池田光政、撰文は京の三宅可三、書は三宅道乙、碑銘は広沢喜左衛門、
天禄辟邪、
獣の名、形は鹿に似て、左の一角のを天禄、右の二角のを辟邪という。天帝から福禄を授かり、邪穢(てんろくひじゃ) を除去する意。
亀趺(きふ)、
亀形の台石で、中国古書に「石碑は、一品はち首(ちしゅ)、二品は麒麟、三品は天禄辟邪でみな亀趺を用い、四品から七品はみな円首で方趺とす」とある。(現地案内板より)
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