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熊野神社ー第1殿~第6殿

熊野神社ー第1殿~第6殿

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左から、第3殿、第1殿、第2殿、第4殿、第5殿、第6殿、第3殿の左側に八尾羅宮ー八尾羅稲荷神社ーがある。
正面の第2殿は、国指定重要文化財、第1殿と第3殿から第6殿は岡山県指定重要文化財。
狛犬は、備前焼。
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県指定史跡 新熊野山由緒概要
約1270余年前文武天皇3年役小角、伊豆大島に流されるや其高弟神人等300余人灘の及ぶを恐れ、熊野本宮の神輿を船に奉じ霊地を求めること約3年に及び、遂に福岡神のお告げにより、柘榴浜(下之町)より上陸し熊野道をへて此地に鎮座す。
実に八葉の峯開く無双の霊地なればなり。
其上陸地に宗願寺を建て、熊野道に地蔵堂を建て(後、石仏を造る、県重文)、行路安全の守護神とす。
天平20年聖武天皇児島を神領に寄進あり、紀州熊野三山に模して天平宝字年中社堂建立し、当社を本宮とし木見に諸興寺を建て新宮山村に由加寺を建てて那智宮とし、併せて新熊野山と称し、附近に寺院僧坊60ヶ院を建て、近郷に王子社を建て、参拝途次の奉幣所とし隆盛を極めた。
五流山伏は、役行者相伝の家にして、鳥羽天皇元永年中僧官永宣旨を受け、代々の帝熊野御幸の節は度々先達をつとめるなどして児島山伏と呼ばれ、高い格式をもち大願寺は報恩大師の定めた児島山上伽藍の内に数えられ、清僧として30余の下寺をもち共に当山の社僧として権勢を誇っていた。
承久3年北條氏のため後鳥羽院は、隠岐島に配流され、皇子冷泉宮頼仁親王此地に流され、26年間御在世にて、宝治元年4月尊瀧院にて夢去さる(1247年)と伝え木見諸興寺に葬り奉る(宮内庁指定御墳墓)。
櫻井宮覚仁法親王も、都の乱をさけて御下向あり、弘長2年此地に夢去され池中の島に葬り奉る。
此間後鳥羽院隠岐にて崩去さるを聞き、境内に仁治元年供養石塔を建て日々供養された(国重文)。
応仁元年兵火の為社堂僧房不残焼失す。
大願寺天誉上人は、諸国勧進の後、明応元年一社再建(国重文)、其他も室町時代末頃までに成就したが其間中国管領大内義典を初め、毛利元就輝元の守護を受け諸国の武将よりも神領の寄進があったが豊太閤高松城水攻めの節、加勢しなかった為神領悉く没収され、後漸く堪忍料として百石の寄進を受け、浮田、小早川両武将より六〇石の寄進を得た。
池田光政公の時より、年二百石の寄進をうけ、厚い御信仰の下に備前藩特別崇敬社に定められ、社堂建替へを受けた(県重文)。
又村内二五院は廃寺とされ、新に備前吉備津宮より祀官を迎えて、神社又は権現官と併称して神官山伏大願寺三方にて奉仕して明治に至ったが、初年神仏分離となった。
此長い歴史の間熊野信仰は、全国津々浦々に迄及び社数も多いが社堂の規模と古さは国内屈指のもので学術上からも貴重なものである。
史跡区域
熊野神社周辺より寺院跡地をへて尊瀧院に至る。福岡神社と蟻峯山及び木見毘沙門堂に至る。
        宮司 大守 哲稿(現地案内板)