清水宗治自刃の地

清水宗治公供養塔

清水宗治公供養塔

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天正10年(1582年)年6月4日、羽柴秀吉の備中高松城水攻めによる敗軍の将となった清水宗治は、秀吉の用意した小舟に乗り込み、舞を舞った後に「浮世をば 今こそ渡れ武士の名を 高松の苔に残して」と辞世の句を詠み切腹をした。その自刃の地は高松城の東で、今は高松山 妙玄寺境内となっている。

現地には、瀬野妙光大法尼が中心となって十方有縁の士を結集し、備中高松城主清水宗治公の至誠を後世に伝えると共に織田・毛利両軍戦没者の霊を弔うために、供養塔が建立されている(昭和38年5月8日)。

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