伊木氏墓碑(いぎしぼひ)

伊木氏墓碑
岡山藩の首席家老で、虫明に陣屋を置いた伊木氏の3代から13代の墓碑。虫明の家並みを見下ろす千力山(円通山)と、長島に墓碑が建てられている。初代伊木氏は香川長兵衛と言い、天文12(1543)年尾張国(愛知県)清洲に生まれる。初め織田氏に、後に池田氏に仕えた。
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- 虫明の街並み
名称 | 瀬戸内市指定重要文化財 伊木氏墓碑(3代~13代)昭和61年12月24日指定 |
所在地 | 瀬戸内市邑久町虫明 |
TEL | 0869-22-1982 瀬戸内市観光協会邑久支部 |
概要 | 伊木氏初代忠次は、初称を香川長兵衛と言い天文12(1543)年尾張国(愛知県) 清洲に生まれる。初め織田氏に、後に池田氏に仕えた。 永禄4(1561)年美濃国(岐阜県)伊木山城攻略の功により、織田信長より姓を賜り、 天正18(1590)年筆頭家老職に任ぜられ尾張国田原城主(一万七千石)となる。 慶長6(1601)年池田輝政が、関ヶ原の合戦の功により姫路城主となり、主君に従って 同8(1603)年主君より橘姓を賜り、豊後守に任ぜられ伊木豊後守忠次となり、三木城主 このように初代にして確固たる地位を築いた。 二代忠繁のとき、弟幸雄に四千石を与え三万三千石となる。 三代忠貞のとき、元和3(1617)年池田光政が鳥取に国替えとなり、倉吉に移る。 寛永9(1632)年再び主君の国替えにより岡山に移り、邑久・上道・和気・浅口郡の地を 同16(1639)年その知行地(ちぎょうち)であり海上交通の要路であった虫明(むしあげ) 14代忠澄のとき、幕末の変動期を迎え、尊王派、佐幕派と混迷する藩論を尊王に導き また、忠澄はお庭窯として今日ある虫明焼の基礎を築いた。 明治となり藩籍奉還後は大参事となるが、まもなく官を辞して三猿斎(さんえんさい) 伊木氏系図、 一代 忠次(ただつぐ)ー二代 忠繁(ただしげ)ー三代 忠貞(たださだ)ー四代 墓碑は初代忠次は三木市本要寺、二代忠繁は三木市正入寺、三代忠貞・四代忠親・ |
交通 | JR赤穂線邑久駅より車で約20分、
JR赤穂線日生駅より車約20分 岡山ブルーライン大平山IC、または虫明ICより車約7分 |
駐車場 | ー |