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岡山藩主池田家墓所ー和意谷ー

池田光政夫妻の墓

岡山藩主池田家の墓所は、池田光政が津田永忠に命じて、造営した和意谷墓所と、その子綱政が同じく津田永忠に命じて造営した曹源寺(正覚谷墓所)の二ヶ所にある。和意谷墓所は儒教の影響を受けた墓所で、曹源寺墓所は仏教(禅宗)の影響を受けた墓所である。

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池田輝政の墓
和意谷墓地参道
池田光政の墓
名称 国指定史跡 岡山藩主池田家墓所ー和意谷ー 平成10年4月8日指定
所在地 〒709-0214 備前市吉永町和意谷60
TEL 0869-84-2511 備前市吉永町観光協会
概要 岡山藩主池田光政が菩提寺の京都花園妙心寺護国院炎上を機に、備前国内に祖父輝政・
父利隆の墓碑移転を決意し、1665年(寛文5年)2月津田永忠に墓所選定を命じた。

永忠は墓域の適地を備前国内に求めること1年余、和気郡脇谷村のこの地域を候補地
として上申、10月下旬光政も自ら検分して決定した。

1666年(寛文6年)12月祖廟に遷葬のことを告げ、池田美作・稲川十郎右衛門等に
遺骨受取りの心得書を渡して出立せしめた。

一行10余名は10日着京、17日離京、伏見・大阪を経て海路明神丸で27日片上着。

直ちに八木山の仮宮に遺骨を遷した。

1667年(寛文7年)1月7日永忠に改葬地造営の総奉行を命じ、諸般の作業は順調に
進み、閏2月13日光政臨席のもとに輝政・利隆遷葬の儀を儒礼によって滞りなく行い、
以後墓域を和意谷敦土山と称すべき旨を永忠に命じた。

途中幕命による江戸城空堀普請奉仕のため一時中断したが、1669年(寛文9年)
墓域工事を完了し、3月16日墓祭を執行、光政が参拝した。

以後毎年3月下旬に墓祭を行い、藩主または池田家一族中が参拝を続けた。

輝政・利隆の棹石2本・亀石1本を片上港より山上まで引上げ、実働日数は39日、
他の各石材は吉井川を上って和気で揚陸した。

改葬には、銀208貫余、延べ11万人余を要し、石材はすべて犬島(岡山市)の石を
利用した。

また、1684年(貞亨元年)墓所領として和意谷新田村を新設し、石高53石3斗
1升5合の年貢米をもって墓所諸経費を賄い墓所永続の策をとった。
(現地案内板より)

交通 JR山陽本線吉永駅より車で約15分、徒歩約35分、

山陽自動車道備前ICより車約15分、徒歩約35分

駐車場 有り

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和意谷墓地参道鳥居
お茶水井戸
一のお山

お茶水井戸、

学問のお殿様として知られ、天下の三大名君と謳われた池田光政公が、この地和意谷敦土山墓参の祭、必ずこの茶水井戸の水で茶を立て、心新たにして世の中を見つめ、地方知行を行い、常にこの茶水井戸のお水を愛飲され、又重宝されました。

現在では入学就職時には他府県より多くの方々がこのお水を愛飲しております。

(頭の良くなるお水として)又原因不明の病気等の方々も非常に多く汲みに来られております。(現地案内板)

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桃太郎

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桃太郎

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