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百間川の始まりは1654年(承応3年)の大洪水により、岡山藩南部を中心に人・田畑・家屋が壊滅的な被害を受け、深刻な食糧難・財政難に陥ったことに起因する。
岡山藩士であった津田永忠は、食糧難を解決するために、操山(みさおやま)以南の浅瀬で大規模な新田開発を行い、新田部分は旭川の氾濫を放水させる川(現百間川)としての機能を持たせ、食糧難と治水の解決を試みた。
また、この大胆な計画により大阪商人から資金調達を行うことで、財政難を克服し、百間川築造と新田開発に取り組んだ。
元禄時代(1692年頃)には百間川の堤防も築造され、また海と川を隔てる海岸堤防や水門なども整備されており、当時から洪水調節や潮止め対策などの機能を有していた。
水門は築造時代によって細かな構造は異なるが、基礎構造は杭基礎や石灰による地盤改良を行っており、上部構造は石積みに扉体を設置しており、現在の基本的な構造型式と変わらない物となっていた。
築造後から昭和43年まで、修繕と改築を繰り返し、長きにわたってその機能を有し、現水門が出来たことでその役目を終えた。(現地案内板)