牛王山 八徳寺

牛王山 八徳寺

中山茶臼山古墳の東側の谷間にあり、中山茶臼山古墳の後円部を拝む位置にある。この場所には、山岳仏教が盛んであった平安時代末期に「高麗寺(こうらいじ)」の金堂があったと考えられている。周辺の土からは布目瓦が出土しており、金堂の礎石が列をなしているのが発見されている。

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明治4年(1871年)3月に倉敷県庁に提出された「一品吉備津宮社記」によれば、八徳寺は「波津豊玖(はっとく)神社」であり、祭神は「温羅命」となっている。

このことから、中山茶臼山古墳には温羅命が祀られているとする研究者もいる。偶数月の17日午前に祭りを行っている。

この寺は尾上の天台講中の方が大切にお祭りしている。ー吉備の中山を守る会よりー

この吉備の中山の麓、福田海の境内から藤原成親遺跡に登っていく途中には、ここ高麗寺仁王門跡と思われる礎石が残っている。

高麗寺金堂跡

八徳寺横の不思議な置物

八徳神社は神職不在の小社で文書も保存されてなく、まとまった伝承も残っていない。
「備中誌」は吉備津神社の記事の一端に大谷山八徳寺・八徳神社とならべて「(神社は)八徳寺境内と有り今は此地旧跡のみ残れり、備前津田左源太という人此神体を人をして盗ましむと伝」と載せている。

池田光政の重臣津田左源太が人を使って伝々というのはいぶかしい。おそらく寛文6年(1666年)に池田光政が強行した社寺整理の網にかかり神体を持ち去られたのであらう。

八徳神社は寛文の整理で神社の資格をうしない、その後ある時期に寺構えの祀堂として再興されたものと考えられる。

次に明治維新にあたり廃仏毀釈のあることをうけて元の神社に変身、八徳神社として存続を図ったことが知れる。

吉備中山総合調査のときのメモには一宮町尾上 天台宗八徳寺備前吉備津彦神社、社僧、境内東西約五十米、南北(中央で)約三十米、半月形社地、建物、本堂一間社流造、経堂二間四方入母屋造妻入、本瓦葺(明治34年2月建築)、拝殿正面三間側面一間の割、拝殿(明治40年10月建築) これは吉備津彦神社などでの聞き書きに過ぎず、建物の名称や建築年月は柱に打ちつけた棟札様のものから写した、建物の名称や構造などから考えても純粋の神社でも、また仏寺でもなく被葬者の霊を祀る宗廟といった構えである。

思うに鎌倉時代あるいはそれ以前から茶臼山古墳の被葬者を対象とする宗廟様の祭祀施設がこの谷間にあり、たまたま寛文の寺社整理にかけられて、神社として整理されてしまった。
しかし近郷住民の間に深く根ざした茶臼山古墳の被葬者吉備津彦命に寄せる信仰は、八徳寺の本尊観世菩薩を通して存続し、明治以降も神・仏と変身してまで今日に至ったものと考えられる。

穴観音の実態、八徳寺遺跡に密接な関係をもつ祭祀遺跡に、俗称「穴観音」という岩叢がある。
八徳寺境内から五十米ほど上方(北方)の山上に、茶臼山古墳をとり巻く空濠の一辺がきており壕の内側(古墳の前方部が後円部に接続した南側)に数個の岩石が群を作っている。
主石と考えられる自然石(かこう岩)の正面を舟形に彫り沈めて仏像を半肉にあらはし石の左側面には口径二十糎底径四糎ほどの穴をうがっているが、仏像も穴も現状がわからぬほど風化が著しい。

ただ側面の穴に耳を当てると観音様のお声が聞こえるという俗信仰があって昔から「穴観音」と呼ばれ縁日には参けい人が多い。
正面の仏像は観音菩薩ではなく大日如来である。

無住の寺が荒廃すると信者たちはこの磐境(いわさか)にきて大日如来を観世音として礼拝するようになった。
私見であるが、この岩石群は古墳築造時(五世紀ごろ)からこの位置にあり原始的祭祀行事の場になっていた。

平安時代までくだると天台宗普及の関係から大日信仰がさかんになり、この磐鏡に大日を彫刻し、これを通して吉備津彦命を礼拝するようになった。
ついで近くの谷間に宗廟を設けて祭祀を行うことが定着して八徳寺となり、時に変身して八徳神社となった。

郷土史家の巌津政右衛門先生が山陽新聞に発表された研究資料から掲載する。現地案内板(八徳寺拝殿内に掲載)より

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