岡山藩郡代津田永忠の事蹟

津田永忠像

岡山藩主池田光政、綱政の2代、50年にわたって仕え、和意谷に池田家墓所の造営、旭川の洪水から岡山城下を守るため、百間川放水路の開削、倉田新田、沖新田など新田の干拓、倉安川の開削、池田家の菩提寺である曹源寺の建立、後楽園の造営など現在の岡山の基礎となる各種事業を手がけ完成させる。

GoogleMapー岡山藩郡代津田永忠の事蹟地図ー

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津田永忠遺績碑

津田永忠遺績碑

岡山後楽園の正面入口近く、鶴舎と茶店の中間地点あたりにある。碑文からは、熊沢蕃山と津田永忠の二人のうち、津田永忠の業績が世間にあまり知られていないため、再評価したいと願う木畑道夫達がこの碑を計画し建設したことが分かる。

岡山後楽園

岡山後楽園

日本の三名園に数えられる回遊式の大名庭園で国指定名勝。岡山藩主池田綱政が津田永忠に命じて造らせた。藩政時代には茶屋屋敷とか後園と呼ばれていた。明治4(1871)年に後楽園と改称し、同17(1884)年に県に移譲、一般公開した。

閑谷学校

旧閑谷学校

岡山藩主池田光政が領内の庶民教育のため津田永忠に命じ創立、寛文11(1671)年に造らせた学校で、聖廟、講堂、小斎、習芸斎、文庫、門、閑谷神社、石塀、石門等、主要な施設が非常によく保存されている。平成27年に日本遺産指定。

名称 岡山藩郡代津田永忠(1640年~1707年)の事蹟
所在地 岡山県南部備前地域を中心として
TEL
交通
駐車場

旧岡山藩藩学泮池

旧岡山藩藩学

岡山藩主池田光政が藩士の子弟教育のために創設した藩学校跡。大正11(1922)年の史跡指定当時には、講堂、校門、南門、泮池等が残されていたが、岡山空襲で講堂や校門等の建物群は全焼し、現在では泮池だけが残っている。

曹源寺本堂

曹源寺正覚谷墓所

岡山藩主池田綱政が、高祖父の信輝と父・光政の菩提を弔い、自らの冥福を祈るために、江戸時代中期の元禄11(1698)年に創建した西日本屈指の臨済宗(禅宗)の寺院である。本堂・方丈の右手に、庭園・池田家墓所への入口がある。

和意谷墓地参道鳥居

和意谷墓所

岡山藩主池田家の墓所は、池田光政が津田永忠に命じて造営した和意谷墓所と、その子綱政が同じく津田永忠に命じて造営した曹源寺の二ヶ所にある。和意谷墓所は儒教の影響を受けた墓所で、曹源寺墓所は仏教の影響を受けた墓所である。

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和気町田原井堰資料館

和気町田原井堰資料館

江戸時代に津田永忠が築いた岡山県指定史跡「田原井堰」が、新井堰完成により撤去されたため、築造以来300年の歴史とわが国有数の規模と構造を誇っていた「田原井堰」・「田原用水」の関係史料を保存し、後世に伝える目的で昭和61年完成。

新田原井堰

新田原井堰

吉井川流域で起こる飢饉解消のため、江戸時代に津田永忠の指揮の下、石を使って吉井川を斜めに仕切った田原井堰が造られ、約300年間下流の農地を潤してきた。昭和47年より田原用水の改修が、昭和54年以降は新田原井堰の構築が行われてきた。

田原用水水路橋

田原用水水路橋

津田永忠らによって数々の技法を駆使して作られた、田原用水が小野田川を横切って渡るために架けられた石製の水路橋で、長さが12.97m、幅3.19mの県下最大規模のものである。全国的にも、その規模、技術水準の高さにおいて誇り得る貴重なものである。

元禄防波堤

元禄防波堤

薩摩藩主津島公が、台風で大多府島に避難、江戸城にて池田綱政公に大多府の天然の良港ぶりを説き割譲を申し込んだのがきっかけで、綱政は津田永忠に大多府築港を命じ一年足らずで港湾設備を整備、開港した。この時に作られた防波堤。

井田跡

友延新田の井田跡

中国周代の井田法を模して寛文10(1670)年、池田光政が津田永忠に命じてこの地に造らせた地割遺構。上井田、下井田からなり、上、下各井田を一区画一町歩(約100アール)を単位にし、一ノ町から九ノ町に九等分し井田法を実施した。

奴久谷大滝

奴久谷の滝

この滝は、津田永忠が、別邸から正面に見える山腹の岩場に、十谷池を水源として造ったと伝わるもの。農業用水が山腹の断崖を流れ落ちて滝を造るが、池の水抜きをする時以外は見ることができない。滝の下には毘沙門天が祀られている。

津田永忠墓

津田永忠墓

宝永4(1707)年、68才で亡くなった岡山藩池田家の重臣、津田永忠の墓。奴久谷の別邸近くのこの地に葬られた。永忠の他に、永忠の妻、永忠の父貞永夫妻、貞永の後妻、永忠の長男、長女の7人の墓が同場所にある。

2の水門

倉安川吉井水門

吉井川を下る高瀬舟を直接岡山城下へ導き、また新田の灌漑のため池田光政が津田永忠に命じてつくらせた延長約20kmに及ぶ倉安川の取入口の水門。この水門の特徴は、二つの水門によって水位差の調節を行い通船する閘門式の水門。

百間川一の荒手

百間川一の荒手

一の荒手は、岡山城下を旭川の洪水から守るため開削した百間川放水路に流入する水量を調節するための洗堰。三つの洗堰(一の荒手・二の荒手・三の荒手)が設けられたが、一の荒手・二の荒手のみが残り、三の荒手は消失している。

建部井堰

建部井堰

旭川中流域の岡山市北区建部町にある、江戸時代初期に構築されてから約350年の歴史を持つ井堰。保存状態良好で稼働中、かつ国内最大級の石造り斜め取水堰として土木学会選奨土木遺産に認定されている。

幸島新田

幸島新田

池田光政が計画、その子綱政が津田永忠に命じて、吉井川左岸にあった神崎新堀を水門湾まで延長し、その東西に開発された新田である。津田永忠は、倉田新田に次いで貞享元(1684)年に幸島新田を完成している。

沖新田

沖新田

沖新田の干拓は、倉田新田、幸島新田に続いて元禄4(1691)年9月に池田綱政が津田永忠に命じて開始、翌年の7月には完成。同時に百間川を延長して新田の中央を通し元禄6(1693)年に完成させている。

鏡の州用水湧水池

鏡の州用水湧水池

和意谷川がつくった扇状地の水田化のために計画された、サイホン方式を用いた地水下利用の用水施設。地中に粘り気の強い赤土で堤防を造り流れてきた地下水を止め、方向を変えさせて鏡の州に湧出させる仕組み。

秀天橋

秀天橋

瀬戸内地方に多く産出される花崗岩を使用した全長36m、幅3mの石造桁橋で江戸時代後期19世紀初頭の文化10(1813)年頃にここ鴨川に架けられたとされている。当時の岡山藩領内では最長の石造桁橋。

内尾大水門

内尾大水門

この内尾第水門は、江戸時代後期の1824年頃に構築された水門で、国内に現存する石造の水門や樋門の中では最長、約10mの花崗岩を使用している。

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