旧閑谷学校

閑谷学校

閑谷学校

岡山藩主の池田光政が、寛文10(1670)年、領内の庶民教育のために重臣の津田永忠に命じて創立し、翌寛文11(1671)年に造らせた学校で、聖廟、講堂、小斎、習芸斎、文庫、門、閑谷神社、石塀、石門等、主要な施設が非常によく保存されている。平成27年4月に日本遺産に指定される。

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名称  日本遺産 国指定特別史跡 旧閑谷学校(きゅうしずたにがっこう)、

史跡 大正11年3月18日指定、特別史跡 昭和29年3月20日指定、

日本遺産 平成27年4月24日認定

所在地  備前市閑谷
TEL  0869-67-1436 特別史跡旧閑谷学校顕彰保存会
日本遺産 平成27年4月24日に、旧弘道館(茨城県水戸市)、足利学校(栃木県足利市)、
咸宜園跡(大分県日田市)とともに「近世日本の教育遺産群ー学ぶ心・礼節の本源ー」
として日本遺産に認定。
概要 旧閑谷学校は、備前藩主池田光政が、庶民の教育を目的として寛文10年(1670)に設立
した郷学である。

徳川光圀・保科正之とならんで天下の三名君のひとりにあげられた池田光政は、藩政の目標を
儒学の教える仁政の実現に置き、寛永18年(1641)には、岡山花畠に儒者をつぎつぎと招き、
家臣の教育のため全国にさきがけて、寛文9年には岡山藩校を城下西中山下に開設した。

さらに庶民の子弟に及ぼすため、寛文8年、領内123ヵ所に手習所を設置したが、
延宝3年(1675)にはそのすべてを廃止してこの閑谷の地に統合した。

寛文6年(1666)、光政は領内を巡視してこの地にいたり、「山水閑静にして読書講学」
にふさわしい場所であるとし、寛文10年仮学校を開設し、この地の旧名「木谷村延原」を
「閑谷」と改め、家臣津田永忠に命じて後世にまで残る学校の建築をはじめさせた。

現在目にすることのできる閑谷学校の姿が完成したのは、光政没後の元禄14年(1701)、
二代目藩主綱政の治世のことで、江戸時代の学校の規模をもっとも完全に残しているもの
として特別史跡に指定されている。

建造物は講堂が国宝に指定されているほか、重要文化財に指定されているものが25件を数える。

閑谷学校の名声は、古くから天下に聞こえていたようで、高山彦九郎、菅茶山、頼山陽、
大塩平八郎、横井小楠などの学者文人も来遊しており、大島圭介など藩外からの来学もあった。

学校は四周を延長765メートルに及ぶ石塀で囲み、南側に校門(鶴鳴門)・公門・教室門・
校厨門の四門が開き、なかに聖廟、閑谷神社(芳烈祠)・講堂・小斎・習芸斎・飲室・文庫
などが配置されている。

備前焼の赤瓦がまわりの緑にはえて美しく、石塀とともに閑谷学校に特有の景観を与えている。

かっては日除山をへだてて西側に学房(寄宿舎)がおかれていたが、現在は明治38年(1905)
建築の旧私立・公立中学校の校舎であった資料室があり、国の登録有形文化財として関係文書
の展示を行っている。

石塀の南には東西にのびる泮池があり、重要文化財指定の石橋がかかっている。

さらに1.2キロメートル南方には当事の校門であった石門が四分の三ほど土に埋もれて現存
している。

ところで、綱政は、元禄13年、閑谷の田畑山林高279石の永代学田学林とし、万一国替などの
際にも学校経営にいささかも影響をうけないようにとの保証を与えたのだった。

しかし、明治の廃藩置県・学制の改革等による大変革によって、閑谷学校も他の全ての藩校
同様、廃校となった。

同時にまた、閑谷学校の歴史を閉じてはならないとする旧藩士や民間有志によって、明治6年
山田方谷を迎えて閑谷精舎として再発足し、さらに明治17(1884)年西薇山らによって
閑谷黌として復活をみてからは、明治37年私立閑谷中学校と改称、大正10年には
岡山県閑谷中学校となり、多くの俊秀を世に送りだしてきた。

戦後、岡山県立閑谷高等学校につづいて和気高等学校閑谷校舎となり、昭和39年までその
中等教育の場として学校の歴史をつないできた。

現在は和気本荘の地に県立和気閑谷高等学校がその伝統を受け継いでおり、孔子の徳を称え
まつる釈菜(せきさい)も、その教職員によって執行されている。

現在特別史跡については、岡山県が管理団体として指定され、財団法人特別史跡旧閑谷学校
顕彰保存会によって顕彰されている。

併せて、岡山県青少年教育センター閑谷高等学校が青少年の研修の場として教育活動を
展開している。(現地案内板)

文化財 国宝 旧閑谷学校 講堂 昭和28年11月14日指定

国指定重要文化財 建造物 旧閑谷学校 講堂、小斎、習芸斎、飲室、文庫、公門 5棟

昭和13年7月4日指定 昭和28年11月14日追加指定 昭和46年3月11日追加指定、

国指定重要文化財 建造物 旧閑谷学校聖廟 11棟

昭和13年7月4日指定 昭和46年3月11日追加指定、

国指定収容文化財 旧閑谷学校石塀 1棟

昭和13年7月4日指定 昭和46年3月11日追加指定、

国指定重要文化財 建造物 閑谷神社(旧閑谷学校芳烈祠) 8棟

昭和13年7月4日指定

閑谷学校ゆかりの人、

池田 光政、 津田 永忠、 熊沢 蕃山、 武元 君立、 山田 方谷、 西 毅一

正宗 白鳥、 大原 孫三郎、 三木 露風、 藤原 啓

料金  大人400円、小中学生100円、65歳以上200円
営業時間  9:00~17:00
休館日  年末年始(12月29日~12月31日)
交通  JR山陽本線吉永駅より車約5分、

山陽自動車道備前ICより車約15分

駐車場  普通車250台 バス13台
飲室・習芸斎・小斎ー閑谷学校ー

飲室・習芸斎・小斎

旧閑谷学校 講堂、小斎、他

講堂は、閑谷学校の中心的建物。小斎は、藩主が学校を訪れた時に使用される建物。習芸斎ー教室として使用。飲室ー師匠・生徒の休憩室。文庫ー書籍等を所蔵する土蔵造りの建物。公門ー御成門。

講堂(国宝)ー閑谷学校ー

講堂(国宝)

国宝 旧閑谷学校 講堂

元禄14(1701)年建築の講堂は国宝。儒学の殿堂にふさわしい様式を備えている。内部は、10本の欅の円柱と白壁、磨き抜かれた床となっており、花頭窓から見える外の風景は、荘厳で美しい。

聖廟ー閑谷学校ー

聖廟

旧閑谷学校聖廟

孔子を祀っており孔子廟または西御堂ともいう。本殿にあたる大成殿は貞享元年(1684)の完成で閑谷学校で最も古い建物である。内部の厨子の中に金銅製の孔子像(元禄14年鋳造)が安置されている。

石塀ー閑谷学校ー

石塀

旧閑谷学校石塀

閑谷学校を訪れてまず目に付くのが、周囲を取り囲んでいるカマボコ型の石組みの塀である。ほとんど隙間無く組み合わされ、草一本生えていないその構築技術には本当に驚く。幅・高さとも約2m、長さ765m。

閑谷神社ー閑谷学校ー

閑谷神社

閑谷神社

閑谷学校の創設者である岡山藩主池田光政を祀るために貞享三年(1686)に建てられたもので、もと芳烈祠または東御堂といわれた。明治八年光政の祖父輝政ならびに父利隆を合祀して閑谷神社と改称した。

石門ー閑谷学校ー

石門

旧閑谷学校石門

学校から1km程南に頭部を擬宝珠型にきざんだ二本の石柱がある。これは、かっての閑谷学校の門であった。今は大半が埋没している。閑谷学校と共に国の特別史跡に指定されている。

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