津田永忠遺績碑
この石碑は岡山後楽園の正面入り口から近い所、鶴舎と茶店の中間地点あたりにある。この碑文を読むと熊沢蕃山と津田永忠の二人のうち、津田永忠の業績が世間にはほとんど知られていないため、これを再評価したいと願う木畑道夫達がこの碑を計画し建設したことが分かる。
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名称 | 津田永忠遺績碑(つだながただいせきひ) |
所在地 | 〒703-8257 岡山市北区後楽園1-5 |
TEL | 086-272-1148 |
碑文解説文 | 余、旧封(きゅうほう)備前に過(よぎ)り、風土文物(ふうどぶんぶつを)を 覧(み)る毎(ごと)に、今だ嘗(か)って熊沢伯継(はくけい)・津田永忠の 我が家に功績在るを想見(そうけん)せずんばあらざるなり。 伯継(はくけい)の余が祖(そ)を輔佐(ほさ)せること、天下人人(じんじん)の 旧臣(きゅうしん)木畑道夫(きはたみちお)等、其の此(かく)の如きを恨(うら)み、 公鋭意(えいい)治(ち)を図り、輔弼(ほひつ)の才(さい)を急(きゅう)にし、 君(きみ)、二世に歴仕(れきし)し、職に在ること五十年、賛翼(さんよく)の 社倉(しゃそう)を設け以(も)って凶荒(きょうこう)に備え、 晩に致仕(ちし)して閑谷(しづたに)に老い、専ら学校を督(とく)し、以て終る。 夫(そ)れ熊沢氏の事、先輩(せんぱい)巳(すで)に「伝(でん)」 皆曰く「然(しか)り。」と。将(まさ)に碑を建てんとし、来りて文を余に請う。 維(こ)れ時(とき)明治十八年八月、車駕西巡(しゃがせいじゅん)し、備前に過り、 駕(が)上道郡江並邨(むら)を経。江並邨は即ち沖なり。 長隄(ちょうてい)数里に亘り、平田(へいでん)数万頃(すうまんけい)、 駕(が)進みて、岡山学校に幸(こう)し、後楽園に駐(とど)まること三日。 茂樹嘉葩(もじゅかは)あり、怪巌奇石(かいがんきせき)あり、鶴舞(つるま)ひ 而(しか)して之を経営せる者は、其れ復(また)誰ぞや。 既にして駕(が)倉安川に沿(そ)ひ、和気郡伊里中邨(なかむら)を経(ふ)。 邨(むら)の北は閑谷(しずたに)なり。 旨(し)有り、侍従(じじゅう)長徳大寺実則(むねのり)をして臨視(りんし)せしむ。 余も亦(また)随行(ずいこう)す。 講堂(こうどう)・聖廟(せいちょう)、魏然(きぜん)として澗松(かんしょう) 而(しか)して之を経営せる者は、其れ復(また)誰ぞや。 皆永忠(ながただ)の功業(こうぎょう)に非(あら)ざるは莫(な)きなり。 因(よ)りてその退隠(たいいん)の処(ところ)を訪ひ、之を黌(こう)の東数十歩、 是(ここ)に於て、余(よ)低徊(ていかい)して去る能(あた)はず。 烏呼(ああ)古(いにしえ)より功成(こうな)りて身退(しりぞ)き、優游(ゆうゆう) 宣(むべ)なり、道夫(みちお)等、伯継(はくけい)と並びに不朽(きゅう)に伝へんと欲するや。 永忠(ながただ)、通称(つうしょう)重二郎(じゅうじろう)、又佐源太(さげんた)、 其の没(ぼつ)するは宝永(ほうえい)四年二月五日と為(な)す。 銘に曰く、 社倉(しゃそう)の遺法(いほう)、以て民の窮(きゅう)を救(すく)ひ、 況(いわ)んや学校を創(はじ)め、礼譲(れいじょう)の風(ふう)を興(おこ)すをや。 凡百(ぼんひゃく)の事業、我が先公を輔(たす)け、施(ほどこ)して今日に到り、 明治十九年一月 篆額(てんがく) 正三位勲三等 池田 茂政(もちまさ) 撰文(せんぶん) 従三位勲三等侯爵 池田 章政(あきまさ) 書 正五位 日下部東作(鳴鶴)(めいかく) 石匠 備中 藤田市太郎 碑石 さぬき 庵治(あじ)石 台石 備中 六口(むくち)島産 現地案内板 |
料金 | 岡山後楽園入園料を参考 |
開園時間 | 後楽園開園時間を参考 |
休園日 | 後楽園休園日を参考 |
交通 | JR岡山駅から市内電車東山行4分城下下車徒歩約10分、
JR岡山駅から藤原団地行バス10分後楽園下車、 山陽自動車道岡山ICより車約15分 |
駐車場 | 普通車250台、バス20台、駐車料金 普通車 100円/1時間、バス 610円/1日・1回 |
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