ー倉敷美観地区ー江戸中期から昭和初期にかけての建物と倉敷川がつくる風情ある街並み
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緑豊かな鶴形山の麓、柳並木が美しい倉敷川沿いに、白壁土蔵のなまこ壁と格子窓の町家が軒を連ねた倉敷美観地区。この風景は、江戸時代の寛永19(1642)年、幕府の直轄地天領になったことに始まる。
天領の代官支配により、新田開発や倉敷川による物資の集散地として栄えた町は、明治維新後は、昭和の初めにかけて大原家を始めとする地元の先駆者たちによる紡績所や大原美術館の開館などで再び繁栄の基礎を築き現在に繋げている。
江戸中期から昭和初期にかけての建物が美しい倉敷美観地区は、昭和54(1979)年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
倉敷美観地区の祭り・行事
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「倉敷雛めぐり」は、毎年3月の雛まつりの前後に、倉敷市内の主要観光スポットー倉敷美観地区ーを中心に商店街、ギャラリー、旅館・ホテルや公的な施設など約400ヶ所で雛飾りが行われる行事。江戸時代から現代まで各地の各家に残る様々な雛人形が飾られる。
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倉敷美観地区を見下ろす阿智神社の秋の祭礼は、昔から別名「屏風祭」との呼ばれ、神社下の町家が各家の屏風を飾り、花を活けて人々をもてなしたと言われている。2002年に再興され、阿智神社の秋祭りに合わせて10月20日前後の土曜、日曜に行われている。
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阿智神社の祭礼時に行われる太鼓神輿。江戸中期頃盛んであったと言われている。昭和47年に有志が保存会組織を作りその灯をつないでいる。、春のハートランド倉敷(5月)、夏の倉敷天領夏祭り(7月)でも繰り出し祭りを盛り上げている。
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阿智神社のお祭りの御神幸の獅子に付き添う、じじ・ばばの面をかむった若者のこと。元禄時代には沢屋のじいさん、ばあさんが付き添っていたが足が弱った沢屋のじいさんがじじ・ばばの面を作らせ若者にかむらせて代わりをさせたのが始まり。
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倉敷美観地区で4月末から5月初めにかけて行われるハートランド倉敷。白壁に薫風にそよぐ緑の柳並木が美しいなか、メインイベントの瀬戸の花嫁 川舟流しが長持ち歌と尺八の音に乗って行われました。
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倉敷美観地区で5月のゴールデンウィーク中に開催されるイベント、ハートランド倉敷で、一般公募により選ばれ、倉敷川での川舟流しや倉敷物語館での撮影会で着物姿で登場し、美観地区の風景にぴったりの和装の美を披露する。
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倉敷美観地区の主な見所
ー国の重要伝統的建造物群保存地区ー、大原美術館、旧大原家住宅、倉敷考古館、倉敷民芸館、日本郷土玩具館、倉敷アイビースクエア、阿智神社、鶴形山公園、素隠居、
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大原孫三郎が友人の画家児島虎次郎に託して収集した西洋美術を中心とし、中国、エジプト美術等も加えて展示するために建築したギリシャ様式の建物で日本最初の西洋美術館。
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民芸のよき理解者であった大原孫三郎が、滋賀県出身の民芸運動家であり染色家の外村吉之介氏を招き、江戸時代に建てられた米倉を活用して、戦後間もない昭和23(1948)年に開館。
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倉敷民芸館に続き昭和25年に開館。江戸時代の米倉を改装、吉備地方を中心とした出土品、出土器、各時代(縄文・弥生・古墳・奈良・室町)の代表的な考古学資料を年代順に展示。
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いがらしゆみこの作品展示の美術館。漫画の原画や原稿、アニメグッズや付録、玩具の展示。絶版で読めなくなった漫画本が読める秘蔵ライブラリー、ミュージアムショップもある。
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江戸時代後期のこの地方の代表的な町屋の一つ。綿の仲買で大いに栄えた大原家の住宅で母屋をはじめ離座敷、内倉、倉など10棟の建物と宅地が国の重要文化財に指定されている。
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大原孫三郎が妻の為旧大原家住宅の隣に建てた別邸で、緑色の瓦から「緑御殿」とも呼ばれている。緑色の瓦にオレンジ色の壁は、黒い瓦に白壁の倉敷美観地区の中でひときわ目を引く。
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明治22(1889)年操業、倉敷紡績の工場を改築再生した宿泊・文化施設で赤レンガに絡むツタが印象的。ホール・ホテル・レストラン・資料館・美術館・体験工房やショップなど魅力ある施設が集まっている。
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倉敷美観地区の入口に位置、南側の長屋門や塀、西側の路地に江戸時代の景観が良く保存されている。旧大橋家の住宅(建築年代ー江戸中期1760頃)を改修したもので倉敷の歴史や文化を紹介。
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目の錯覚を利用したからくり(だまし絵)や、桃太郎の歴史資料ー江戸時代の古文献、浮世絵、絵本、大正・昭和時代の玩具などーを展示。館長さんのちくわを使った演奏が聞けるかも?
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明暦3(1657)年倉敷で生まれた薬屋「林源十郎商店」と地域の人達から愛された第8代(林孚一)と第11代(林源十郎)の二人の当主の物語を創業時から現在までを、写真や記念の品をまじえて紹介。
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倉敷市生まれー昭和22年ー倉敷商業高校、明治大学を経てドラフト1位で中日ドラゴンズに入団した星野仙一の野球人生をたどる貴重な記念品(400点)を展示。感動シーンの写真やビデオも上映。
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倉敷河畔、倉敷美観地区にある重要伝統的建造物群の中でも代表的大型町屋で、最も古くから存在する建物の一つ。主屋は、江戸時代中期の正徳年間頃(1711~1716)の建築と推測されている。
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国産デニム発祥の地、児島産のデニムを使用したジーンズやバッグ、小物などの雑貨商品にこだわって販売している。店頭では、デニム色と称して青系の色のソフトクリームや、バーガー、まんじゅう、飲み物などが人気。
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倉敷美観地区内にある、国の重要伝統的建造物群保存地区の町家を改築、製作見学や製造体験が行える工房付きの店舗を整備して、地元素材を使ったオーダーメイドクラフト製品の製造・販売を行っている。倉敷の町家の中の様子も楽しめます。
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鶴形山は海抜40mの小高い丘で、山頂には倉敷の総鎮守である阿智神社が鎮座、西側には、真言宗御室派の寺院、宝寿山観龍寺が建てられている。山上一帯は鶴形山公園として整備されており、春の桜やツツジ、藤の見所として知られている。
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阿智神社の杜は阿知潟に浮かぶ小島であったとされている。応神天皇の時代この小島に朝鮮半島より渡ってきた阿知使主一族が盤座や磐境に鶴亀の石組や陰陽思想的な盤座を組み合わせた祭場を造ったのが始まり。
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美観地区の街並みの背後、鶴形山の一画にある西国三十三所観音霊場の一つ。美観地区を訪れたら直ぐそばにある鶴形山公園に上がることをお勧め。ここの境内から倉敷の町並みを眺めるのも良い。
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江戸中期の寛保2(1724)年に創建され以来村に時を知らせる鐘として親しまれてきた鐘楼で、幾度かの喪失と再建を経て昭和24年故大原総一郎氏により寄付された鐘が自動鐘打機により打ち鳴らされている。
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倉敷美観地区の入口、林源十郎商店の近くに奈良萬の小路がオープン(2013年3月24日)。倉敷の老舗「奈良萬旅館」と古民家を改装して、和食、イタリア料理、カフェギャラリー、バー、ラーメン、串焼きなどの店舗が入居している。
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大原美術館のすぐ隣にある蔦で覆われた大正ロマンの香りを色濃く残すカフェ、建築家薬師寺主計設計、大原家の事務所であった建物を、昭和34(1959)年に喫茶店に改築したもの。「受胎告知」の作者名から採った。
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倉敷美観地区本町通り沿い、阿智神社の南側石段を降りた所にある。その地域独特の自然や風土を生かして、干す・煮る・燻す・漬ける・練る・醸すなどにより作られた食べ物を集め、大正時代の倉庫で展示販売する店。
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両側に白壁になまこ壁の蔵屋敷の建ち並ぶ倉敷川。川面から柳並木越しに町並みを眺めるのも良いもの。5月のGW時のハートランド倉敷では瀬戸の花嫁、くらしき藤娘、かぐや姫の川舟流しを見ることができる。
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大正6年に開所した倉敷町役場跡。現在は倉敷館観光案内所として美観地区の観光案内の拠点となっている。主要業務ー観光案内、観光物産品の販売、くらしき川舟流しチケット販売、観光パンフレット等設置等。
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ホテル・旅館は、倉敷美観地区とJR倉敷駅周辺に集中、ほとんどが徒歩で移動できる範囲に立地。美観地区内には江戸中期に建設された商家なども旅館として使用されており倉敷らしさを味わうことが出来る。
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倉敷美観地区内に有る昼食、食べ歩き、みやげ物に適したグルメショップを順次ご紹介。観光案内所には、1,500円ランチの店を紹介したパンフレットが置いてあります。
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倉敷美観地区内に駐車場は殆んど無く小規模の駐車場が少し。徒歩5分程度の周辺地区には、比較的大きな駐車場がいくつかある。倉敷芸文館地下駐車場、倉敷中央駐車場は市営駐車場で美観地区とも非常に近い。
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「昭和の町」が美観地区と倉敷駅を結び、「平成の町」が倉敷駅北に造られて江戸中期から昭和初期の街「倉敷美観地区」と相まって時代の変化をそのまま残したまるで「人が生活するテーマパーク」となっている。
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倉敷美観地区ー街並み形成の歴史ー
倉敷川沿いの柳並木に映える白壁となまこ壁の蔵屋敷、この倉敷美観地区の風景は江戸時代の寛永19(1642)年、幕府の直轄地天領になってから形成されていった。
天領の代官支配を受けてからは、新田開発による農地の増加、綿花の栽培による商工業の発展により周辺から多くの人々が流入する。そして備中、美作、讃岐の米、綿、油などが陸路、水路を通じて集荷・搬出されるようになり一大商業地として繁栄。
川沿いには綿花問屋、米穀、肥料問屋などの倉庫が次々と建てられ、物資を積んだ船から荷をおろす人々や、それを運ぶ大八車の往来で大変賑わったといわれる。
幕末を迎えると220年余り続いた代官所(現在のアイビースクエア付近)は、倉敷浅尾騒動-慶応2(1866)年-で灰燼に帰す。明治維新になって跡地は倉敷県の県庁となるも、間もなく倉敷県は廃止(明治4年)となりしばらく放置されるなど大きな変遷を経る。
明治21(1889)年、地元の先覚者たちによって倉敷紡績所が創設されると、再び倉敷繁栄の始まりとなり世界恐慌真っ只中にかかわらず昭和5(1930)年の大原美術館の開館などを経て、現在の美観地区の礎が形成されていった。
平成の今も江戸から明治大正にかけての日本の風景をそのままに残すここ美観地区であるが、この景観を維持するには相当の先見性とそれを理解して街並みの保存に努めた地元財界、そして戦後間もない昭和23年、大原孫三郎・総一郎に招かれて倉敷に居を移し、米倉を改装して倉敷民芸館の開館に尽力した初代館長の外村吉之介(1898~1993)氏をはじめとし、商工会議所、町の人たちの協力と努力があったといわれている。
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日本民芸館の開館-昭和23(1948)年-に続いて、昭和25(1950)年には倉敷考古館が、昭和42(1967)年には日本郷土玩具館がオープンし次第に倉敷美観地区の現在の形が出来上がってきた。
日本の多くの地域が、戦争で焼失し或いは古い建物を取り壊していった中、建物はその外観を残したままで、時代の変化に対応した店や美術館、博物館に変え、これだけのものが残っている事は、本当に素晴らしい事である。
倉敷の街が爆撃の対象にならなかったのも、一部では西洋美術を集めた大原美術館があった為だとも言われている。
以前、萩を訪れて寺のお坊さんの話を聞いたことがあるが、あれだけの街並みを残す為の街の人たちの努力は相当のもののようだった。倉敷の街の人たちの努力に感謝したいものだ。
倉敷美観地区の街並みの背後には、緑豊かな鶴形山が控えている。
鶴形山の名前は昭和以降の呼び方で、古くは、この山は、吉備の穴海と呼ばれる瀬戸内海の浅瀬に浮かぶ小さな島であった。
倉敷村の黎明期に村の鎮守として妙見宮が祀られており、妙見山と呼ばれていたとか。ここには、今もこの地域の古くからの信仰の対象である阿智神社や観龍寺がある。この公園から、吉備の穴海を想像しながら倉敷の町並みを眺めるのも良いもの。
春には桜や藤の花を、秋には紅葉を楽しむことができる。
倉敷美観地区の魅力は、
1.このように江戸時代中期から昭和初期の建物を、人々が生活をしていく中で残していっている事に加え、
2.JR倉敷駅からここ美観地区迄では、昭和の色彩が色濃く残った商店街を楽しむことが出来、
3.倉敷駅北側のチボリ公園跡地では、くらしき未来公園とその両脇に造られた、アリオ倉敷、三井アウトレットパークなどモール形式の平成の町をも楽しむことが出来る。
4.さらに、阿智神社境内には、応神天皇の時代、阿知潟に浮かぶ小島であった鶴形山に朝鮮半島より渡ってきた阿知使主一族が盤座や磐境に鶴亀の石組や陰陽思想的な盤座を組み合わせて造った祭場が残っており古代の日本をも知ることが出来る。
5.しかもそれらすべてが歩いて楽しめる
という全国的にも珍しい街に発展していっていることである。
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こうした、干拓地を背景として現在の倉敷美観地区が造られていった倉敷発展の歴史は、一輪の綿花から始まる倉敷物語~和と洋が織りなす繊維のまち~として平成29年4月28日、日本遺産に認定された。
日本遺産構成文化財
倉敷河畔(伝統的建造物群保存地区)、旧大原家住宅、大橋家住宅、井上家住宅、楠戸家住宅、大原美術館、旧中国銀行(倉敷本町出張所)、有隣荘、倉敷館、倉敷考古館、倉敷アイビースクエア、倉敷紡績記念館、倉敷屏風祭、素隠居、ばらずし、倉敷民芸館、民芸品、高梁川東西用水(取排水施設)、一の口水門、磯崎民亀記念館、錦莞莚、板敷水門、蓮台寺、由加神社、旧野崎家住宅、繊維製品、下津井町並み保存地区、むかし下津井回船問屋、下津井節、玉島町並み保存地区、旧柚木家住宅(西爽亭)
倉敷美観地区を含む倉敷周辺地図
Google Mapー倉敷市・総社市観光案内地図ー
Google Mapー倉敷・総社・玉野市内ホテル・旅館案内地図ー
Google Mapー倉敷のグルメ処・駐車場案内地図ー
投稿タグ 倉敷市倉敷美観地区