岡山市街地の北西部、国道180号線やJR吉備線沿い、総社市にかけての地域(吉備路エリアー総社地区ー)は、古代吉備国の中心として、吉備文化発祥の地であり、のどかな田園風景の中に、壮麗な神社、日本有数の古墳、山城など古代のロマンあふれる史跡が散在している。
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Google Mapー吉備の中山及び周辺の史跡地図ー
Google Mapー岡山市内ホテル・旅館案内地図
さらに、この地域の素晴しいところは、我が国における東西陸路交通の要衝(旧山陽道)であったことから、古代吉備の歴史、文化に加えて平安末期の源平合戦から戦国時代、江戸時代にかけての様々の歴史の積み重ねもあり、それらの史跡も加わっている事である。ここでは、吉備路の内、岡山市に属する部分について説明する。
造山古墳、吉備津神社、吉備津彦神社、中山茶臼山古墳、福田海本部、高松城水攻め跡、鯉喰神社、矢喰の岩、最上稲荷、最上稲荷奥之院一乗寺、足守侍屋敷、木下利玄生家、足守文庫、近水園、大光寺、足守歴史庭園、緒方洪庵誕生の地、足守の街並み、吉備の中山、藤原成親遺跡、岡山県古代吉備文化財センターなど
慶長6年秀吉の正室「ねね」の兄が足守藩を収めたのに始まる。一時天領となるも元和元年家定の子利房が藩主となって以降明治まで256年間木下氏の陣屋町として繁栄。今も武家屋敷や商家が数多く残り町並み保存地区に指定されている。
市営足守駐車場から近水園に行く途中に,白壁の長屋門と土塀に囲まれた木下家家老 杉原家旧邸宅がある。長屋門、母屋、内蔵、便所・湯殿、外蔵からなり、母屋は伝統的な武家書院造りの構造を持ち、今日の和風住宅の原型とも言われている。
足守の町並み保存地区のほぼ中央にある、足守の商家の姿を良く残した貴重な建物。機械化、自動化されている現在の醤油製造工程とは違い、醤油仕込み桶や醤油搾り機等当時の醤油製造の様子を知るには分かり易く興味深く学ぶことが出来る。
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旧侍屋敷から近水園に行く途中、利玄通りに入ると左側の広い空地(足守陣屋跡)に続いて利玄生家の長屋門が見えてくる。利玄生家は週末と祝日など限定された日にしか公開されないが嘉永年間に建てられた時の様相が良好に残されている。
足守の町並みの北、宮路山の麓、足守川の右岸にある旧足守藩主木下家の庭園。広い泉池に鶴島、亀島をうかべ園内にはカエデやサクラが多い。吟風閣は6代藩主が宝永5年、京都の仙洞御所を造営した際、残材を運んで建築したと言われる。
足守侍屋敷から足守小学校横の利玄道を通って、近水園に行く時左側に芝生の公園がある。何もないので見過ごしがちだがこれが、旧足守藩の陣屋跡。良く見ると周囲が濠で囲まれておりまた利玄生家ともかってはつながっていたとの説明もある。
近水園から少し離れた山麓にある足守藩主木下家の菩提寺で、藩主の遺筆など貴重な資料も数多く納められ、御霊屋(みたまや)には秀吉、北の政所そして木下家代々藩主の位牌が安置され、足守の歴史を見つける事の出来る由緒ある寺院。
江戸時代末期に蘭学者として天下に名をはせた緒方洪庵(1810~1863)の誕生地。現在は銅像、顕彰碑の建てられた宅地と古井戸が残っているのみ。足守の町並み保存地区から足守川の大井橋を渡って細い路地を越えた先の山裾にある。
足守観光駐車場に車を止めて足守の町並み保存地区を歩いていくと、備中足守まちなみ館が目に入るがこの建物のすぐ隣にあるのが乗典寺。緒方洪庵ゆかりの寺ののぼりが立っているので分かり易い。洪庵の両親や先祖の墓が後の墓地に。
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足守の町並み保存地区を南西に向かって歩いていくと右手に「備中足守まちなみ館」と書かれた白壁になまこ壁が印象的な町家が見えてくる。ボランティアガイドの方が出てきて丁寧に展示物や足守の町並みについての説明を受けることが出来た。
足守の町並み保存地区の南西のはずれにある、陶芸や木工の体験が可能な観光施設。併設してレストランやギャラリー、駐車場もあるのでゆったりと過ごすことが出来る。大きな「くすの木」と「洪庵茶屋」と書かれたなまこ壁の食事処が目印。
足守町並み保存地区の北東の入口近くにある観光駐車場。駐車場の中にはトイレと休憩処がありうどんやそばを安く提供してくれる食事処も併設している。近水園、旧足守藩侍屋敷遺構、足守町並み保存地区の何処にも近い便利な所にある。
崇神天皇の御代に四道将軍として吉備国に派遣された吉備津彦命ー桃太郎の鬼退治の主人公ーを祭神とし古くから吉備地方の総氏神として崇敬されている。境内では春にはぼたん、初夏にはあじさいが咲き誇り多くの人々が訪れる。本殿は国宝。
臨済宗の開祖として、また中国から日本に茶の種を持ち帰り茶を広めた茶祖として仰がれる鎌倉時代の高僧栄西禅師は、吉備津神社の神官賀陽氏の出。吉備津神社から徒歩で5分程の栄西禅師生誕地とされる所に2014年3月庭園が整備された。
妹尾太郎兼康公は備中妹尾の豪族で平氏の家人として数多くの武功をたてると共に農業にも深く意を注ぎ領内においては新田を開発し嘉永元年には十二ヶ郷用水の取水口である湛井井堰を開設するとともに、用水路の整備をしたとされている。
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岡山市中心部より国道180号線を西進すると古代「吉備の国」で神体山として崇められた「吉備の中山」の北東麓にさしかかる。ここに鎮座し備前の一宮として信仰を集める神社には吉備国草創の伝説上の英雄吉備津彦命が祀られている。
私が最初にこの城跡を訪れた時には、清水宗治の首塚以外、何も見るものが見あたらず、蓮が植わっているただの広い公園ではないかと思ったのだが、何度も訪れ周囲の史跡も併せて巡るうちにここで作られた歴史の巧みさに魅了されてしまった。
約1,200年前に報恩大師創建した日本三大稲荷の一つで神仏混合の姿を今も残し、五穀豊穣・商売繁盛の神として全国から幅広い善男善女の信仰を集めている。奥之院への参道は季節の変化を感じることが出来、見晴らしも良いお勧めの散歩道。
最上稲荷から奥之院への参道を登って行くと途中、本瀧、題目石、八丈岩等を経て竜王山山頂の奥の院に達する。ここは麓の最上稲荷に比べ訪れる人も少なく、ひっそりとしていて訪れるたびに四季の変化を身近に感じることが出来る。
古代吉備の国の時代、人々から崇められてきた「吉備の中山」の山頂付近にある全長120m程の中山茶臼山古墳は、4世紀初頭の築造で四道将軍として大和から派遣され吉備の国を治めた大吉備津彦命の墓と呼ばれる前方後円墳。
古代吉備の国の時代、人々から崇められてきた「吉備の中山」の中腹にある埋蔵文化財の保存、展示施設で古代吉備の遺跡を中心に、百間川、鬼城山など岡山県内から出土した土器や石器を展示して写真やパネルで説明をしている。
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大納言藤原成親は、僧俊寛らと共に平家打倒を誓った”鹿ヶ谷”の密議が露見、平清盛により治承元(1177)年下津井に流され、後吉備の中山有木の別所に移されこの地で非業の最後を遂げた。高麗寺の山門跡の礎石や成親の墓などが残っている。
吉備津神社や吉備津彦神社の背後には、古くから吉備の中心に位置し人々から崇められていた吉備の中山がある。歴史や自然に興味の或る方は、健康作りも兼ねて吉備の中山の散策をお勧め。吉備の歴史や自然をより深く理解するよい機会となる。
吉備津神社と吉備津彦神社を結ぶ吉備の中山の山裾沿いの道を通っていくと鼻ぐり塚と書いた案内表示に出会う。ここでは牛の鼻ぐりを集めて家畜の供養や蓄魂祭を営んでいる。平清盛の怒りを買ってこの地に流された藤原成親の遺跡も。
足守川の東岸近くの田んぼの畔にある。田んぼの中の穴の穿たれた石が何故、昭和3年といった早い時期に国の史跡に指定されたのか?その歴史を知らないと分からないが、この石の背後にある歴史に想いを寄せ色々と想像してみるのも楽しいもの。
造山古墳は、備中国分寺、備中国分尼寺跡、こうもり塚古墳などが連なる「吉備路風土記の丘」の1km程東、足守川との中間付近に位置する。主要道路から少し外れるのでわかりにくいが、近くに駐車場や案内板も整備されている。
犬養木堂生家は吉備の中山からほど近く、新幹線高架横駐車場より歩いて3分(300m)程の所にある。途中、この地域の古い集落、神社などもあり、木堂が育った村内の様子もしのぶことができる。途中に木堂記念碑、木堂の墓などもある。
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吉備路のほぼ中央部、血吸川沿いの田んぼの中にある桃太郎ゆかりの岩。すぐ横は岡山自動車道岡山総社IC。「吉備の中山に陣取る吉備津彦命が射た矢と鬼の城に居た温羅が投げた岩とが空中でかみ合い落下した」といういわれをもっている。
岡山市街から岡山空港、津山方面に伸びる国道53号線の西側にある坊主山の麓には「首部」と書いて「こうべ」と呼ぶ珍しい名前の集落があり、そこに祀られている白山神社の境内には「首塚」が地元の人たちによって大切に保存されている。
岡山城下から山陽道を西に向かう時の最初の宿場町で、南にいくと陣屋町庭瀬、北に行くと陣屋町足守から備中松山方面、西に行くと山陽道を宝福寺、矢掛宿方面へとつながる交通の要衝であった。また源平板倉合戦のあった所でもある。
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