倉敷代官所跡
ここアイビースクエア附近一帯は、戦国時代の砦の跡で、関が原の合戦で東軍が勝利を得てから徳川幕府の直領(天領)となり、大阪冬の陣の時、兵糧米を倉敷湊から大阪に積み出すため陣屋とした。それ以来、寛永19(1642)年には倉敷代官所となり、以後明治維新にいたる二百余年間、倉敷代官所は備中(倉敷)美作(久世)讃岐(塩飽諸島)の天領を支配してきた。
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名称 | 倉敷代官所跡 |
所在地 | 〒710-0054 倉敷市本町8-30 |
TEL | 086-422-0011 倉敷アイビースクエア |
歴史 | 古来この附近一帯は「小野が城」または「城の内」と呼ばれ、戦国時代の砦の跡といわれる。
慶長5(1600)年関が原の合戦で東軍が勝利を得てから、この地は徳川幕府の 慶長19(1614)年大阪冬の陣に備中国総代官小堀遠州は幕府の命をうけ、 それ以来倉敷湊は急速な発展を遂げ、寛永19(1642)年に陣屋は倉敷代官所となり、 それより明治維新にいたる二百余年間、倉敷代官所は備中(倉敷)、美作(久世)、 天保5(1834)年には代官所北側に倉敷教諭所が建てられ明倫館と名付けられた。 それ以来、この地は文教の中心地となった。 幕末になって尊皇佐幕で天下が物情騒然のとき 慶応2(1866)年長州奇兵隊を このため代官所は灰燼に帰し焼け野が原となった。 明治の維新政府は、代官所跡に倉敷県庁を置いたが、明治4年倉敷県が廃止されてからは その後地元の先覚者達によって、明治21年3月9日代官所跡に倉敷紡績所(倉敷紡績株式会社) 以来、倉敷紡績の隆盛は倉敷の発展に寄与するところとなった。 倉敷紡績では、この地が古くより倉敷発展の中心地であるのみならず また、会社発祥の |
交通 | JR山陽本線倉敷駅より徒歩約15分、
山陽自動車道倉敷ICより車約15分、 瀬戸中央自動車道早島ICより車約10分 |
駐車場 | 普通車120台、バス10台 |