06/30/2020 / 最終更新日時 : 06/30/2020 桃太郎 史跡 両児神社(ふたごじんじゃ)ー松島ー ここ両児(ふたご)神社は、約1,800年前、神功皇后が三韓征伐の帰り、戦勝と、筑前国譽田の宮にて誕生した二歳の皇子の安泰を祈願された二子の宮ー当時は高鳥居山(ここから数キロ北)に鎮座ーを約1,200年前称徳天皇の時代に遷座した神社。
06/29/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 羽柴秀長陣跡ー鼓山ー備中高松城水攻めー 羽柴秀吉の弟秀長が陣を張った所ー高松城水攻関連史跡・皷山陣所跡・つづみ山城跡(海抜118m)ー天正10(1582)年4月 織田信長の命により備中へ進攻した秀吉の左翼をかためる弟・羽柴秀長が山陽道からの毛利軍に対して布陣した所である。
06/25/2020 / 最終更新日時 : 06/29/2020 桃太郎 史跡 藤田伝八郎の墓ー本能寺の変の密書を持った密使ー 6月3日未明 本能寺の変を毛利方へ伝えんとした明智の臣・藤田伝八郎が秀吉の弟羽柴秀長の陣付近で捕えられた。この使者から情報が漏れることを恐れた秀吉軍は伝八郎を殺害してしまった。
06/24/2020 / 最終更新日時 : 06/25/2020 桃太郎 史跡 高松城水攻築堤趾ーJR桃太郎線足守駅南ー この高松城水攻築堤趾は現在良く知られている蛙が鼻にある築堤趾ではなく、JR桃太郎線足守駅前にある築堤趾で、足守駅の東にある同線踏切の南50m程の堤防上から見ることが出来る。
06/21/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 津田与左衛門陣跡ー小山ー備中高松城水攻めー 津田与左衛門陣跡は加藤清正陣と宇喜多忠家陣の間にある。今は陣の南端部をかすめてJR吉備線が走っている。
06/21/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 副堤の北端ー備中高松城水攻めー 備中高松城水攻め時に足守川堰き止めの為に築いた副堤の北端ー天正10(1582)年5月、羽柴(豊臣)秀吉は、高松城水攻めに際し、この付近からJR吉備線足守駅南まで全長約400mの副堤を築いたと伝えられ、この地はその北端にあたる。
06/20/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 水取り入れ口遺跡ー備中高松城水攻めー 備中高松城水攻め時の水攻め用水取り入れ口遺跡は、天正10(1582)年5月、羽柴(豊臣)秀吉が高松城水攻めの際、足守川のこの付近を堰止め、蛙ヶ鼻までの約3㎞の堤防を築き水を引き入れた場所と伝えられる。
06/20/2020 / 最終更新日時 : 06/20/2020 桃太郎 仏閣ー寺院ー 蓬莱山 報恩禅寺 蓬莱山 報恩禅寺は、かって加藤清正陣跡の山の上にあったが、その後この位置に移転したとされている。また、参道左側には文英の銘が刻まれた文英石仏と呼ばれる吉備地域固有の石仏が祀られている。
06/19/2020 / 最終更新日時 : 06/24/2020 桃太郎 史跡 生石神社 生石神社ー祭神 主神ー応神天皇 神功皇后 玉依媛命 今から1200~1300年も前からこの地区の氏神様であった。奈良時代の神名帳にも残されている。社殿は南北朝末期頃建てられた。
06/19/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 加藤清正陣跡ー報恩寺山ー備中高松城水攻めー 備中高松城水攻め時、生石神社のある報恩寺山に加藤清正が陣を構えた。西脇には足守川が流れている。水攻めにあたり川向こうに400m程の副堤を築き、陣前付近を水攻めの水取り口とし足守川を閉鎖、備中高松城を孤立させた。
06/18/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 吉川元春陣跡ー庚申山ー 戦国時代この庚申山には、積善寺という多くの堂塔僧房をもち、楼門を構えた大寺があったが天正10(1582)年高松城水攻の時、毛利の勇将吉川元春がここを陣所としたため、その兵火によってことごとく焼失したと伝えられている。
06/14/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 仏閣ー寺院ー 小早川隆景陣所跡ー日差山ー 日差山は羽柴秀吉による備中高松城水攻め時、尾根続きにある鷹ノ巣城跡と共に小早川隆景が陣所を張った所として知られている。日差山山頂下の日差山寺(祭神ー毘沙門天)近くには駐車場があり、ここまでは車で登ることができる。
06/11/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 宇喜多忠家陣跡ー八幡山ー 備中高松城水攻めの際、織田方に付いた宇喜多秀家の叔父、宇喜多忠家(直家の弟)が陣を張った八幡山。現在は、八幡神社が鎮座している。備中高松城跡や羽柴秀吉陣跡方面の眺望に優れている。
06/11/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 ごうやぶ遺跡 備中高松城 三の丸総門のわきにあり、1582年6月4日死出の宗治等の舟を追うて宗治の僕、七郎二郎と月清の馬の口取興十郎とが「一足先に三途の川でお待ち申します」と互いに差し違えた所。
06/11/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 清水宗治の胴塚 天正10年(1582)6月4日、秀吉軍の水攻めに会い自決した高松城主、清水宗治公の首級なき胴体遺体は舟上のまま本丸に帰ってきた。迎える家臣、身内の者共、抑えきれぬ涙に感極まって一同の嗚咽がおこった。やがて回向の声に包まれ、池の下丸、この地に手厚く葬られた。