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福山城跡

福山城跡

湊川決戦一週間前備中福山合戦
海抜302米のこの福山は、往古、神奈備(かんなんび)山、加佐米山、百射(ひもい)山とか言われたが、山岳仏教が栄えた奈良平安期、報恩大師が頂上に福山寺及び十二坊を建て伽藍(がらん)が全山に並び繁栄を極め福山と呼ばれるようになった。
後醍醐天皇念願の親政が復活したが、建武中興に加わった足利尊氏が論功行賞に忿懣(ふんまん)を抱き天皇支持勢力の新田義貞、楠木正成等と対立した。
この結果、尊氏勢が九州へ敗走し軍勢を立て直して再び京都を目指し東上を開始した。
福山合戦は、その途上の延元元(1336)年5月におこった。
足利直義(ただよし)16日、朝原峠より攻撃を開始したが、城兵撃退す。
17日四方より総攻撃をかけ、城兵は、石火矢、岩石落し、弓矢にて二万余の死傷者を出したが、新手入り変り立ち変り遂に乱入され火をかけられ落城となった。
大井田氏經一千騎引連れ山下の直義の本陣になぐり込み奮戦したが味方は百騎程になり、山上は火の海、氏經はこれまでと部下を集め三石の本陣に加わらんと一方切り破り逃がれた。
福山城落城後直義は敗走する氏經を追い板倉より辛川まで十余度交戦を続け三石城へ逃れ去った。
直義は足利勢を爰(ここ)で休養させ首実検をして戦功を賞した。討首千三百五十三を数えたという。(現地案内板より)
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