06/01/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 岡山城 本丸 岡山城 本丸は、藩主の住まいである御殿があった上の段(本段)、政治の場である表書院があった中の段(表書院)とこれらを取り囲んだ下の段の三段から成り、下の段の南方と西方は堀で、他は旭川により守られている。
05/31/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 岡山城 本丸 下の段 岡山城 本丸 下の段は、岡山城 本丸を構成する、本段(上の段)、表書院(中の段)、下の段の内、一番下の段を言い、本段・中の段を取り囲むと共に、南側と西側が内堀に面し、その他の側は旭川に面している。最も広い所は、南東部にあり、精米を行う舂屋、家来の待機所である供腰掛と共に中門で仕切られた東側には広場を中心に5棟の蔵が建ち並んでいた。
05/31/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 花畑隅櫓跡ー岡山城 本丸 下の段ー 岡山城 花畑隅櫓跡は本丸 下の段の旭川沿いで、月見橋から岡山城 廊下門へ行く途中の旭川堤防上付近にある。現地に案内版が無い為詳細は不明であるが、下の段 供腰掛に展示されている「岡山デジタルミュージアム所蔵の岡山城 本丸模型の写真」によれば隅櫓は二層であったことが分かる。
05/31/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 花畑御殿跡ー岡山城 本丸 下の段ー 岡山城 花畑御殿跡は、本丸 下の段の旭川沿いにある。現地に案内版が無い為詳細は不明であるが、下の段 供腰掛に展示されている「元禄13年(1700年)の御城内御絵図」によれば、この頃には、廊下門の外側に花畑御殿が建てられていたことが分かる。藩主が公務から離れ休息をとる御殿であったと推測される。
05/31/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 隅櫓跡ー岡山城 本丸 下の段ー 岡山城 隅櫓跡は、現在は民家となっているが、内堀の北端・本丸 下の段の旭川沿いにある。現地に案内版が無い為詳細は不明であるが、下の段 供腰掛に展示されている「岡山デジタルミュージアム所蔵の岡山城 本丸模型の写真」によれば隅櫓は三層であったことが分かる。
05/30/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 坂下多門櫓跡ー岡山城 本丸 下の段ー 岡山城 坂下多門櫓跡は、本丸 下の段の旭川沿いにある。現地に案内版が無い為詳細は不明であるが、下の段 供腰掛に展示されている「岡山デジタルミュージアム所蔵の岡山城 本丸模型の写真」によれば坂下多門櫓は二層であったことが分かる。
05/30/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 中水の手門跡ー岡山城 本丸 下の段ー 岡山城 中水の手門跡は、本丸 下の段の旭川沿いにある。現地に案内版が無い為詳細は不明であるが、下の段 供腰掛に展示されている「岡山デジタルミュージアム所蔵の岡山城 本丸模型の写真」によれば中水の手門は二層であったことが分かる。
05/29/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 修覆櫓跡ー岡山城 本丸 下の段ー 岡山城 修覆櫓跡は、本丸 下の段の西側内堀沿いにある。現地に案内版が無い為詳細は不明であるが、下の段 供腰掛に展示されている「岡山デジタルミュージアム所蔵の岡山城 本丸模型の写真」によれば修覆櫓は二層であったことが分かる。
05/29/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 油蔵櫓跡ー岡山城 本丸 下の段ー 岡山城 油蔵櫓跡は、本丸 下の段の西側内堀沿いにある。現地に案内版が無い為詳細は不明であるが、下の段 供腰掛に展示されている「岡山デジタルミュージアム所蔵の岡山城 下の段模型の写真」によれば油蔵櫓は二層であったことが分かる。
05/29/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 中門跡ー岡山城 本丸 下の段ー 岡山城 中門跡は、本丸 下の段の供腰掛のすぐ裏にある。現地に案内版が無い為詳細は不明であるが、下の段 供腰掛に展示されている「岡山デジタルミュージアム所蔵の岡山城 下の段模型の写真」によれば 、本段 三階櫓下の石垣下から内堀近くにかけて、下の段のほぼ全幅に亘って長屋風の門が建てられていたことが分かる。
05/28/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 弓櫓跡ー岡山城 本丸 下の段ー 岡山城 本丸の弓櫓跡は、現地に案内版が無い為、明確な位置は不明であるが、下の段 供腰掛に展示されている「岡山デジタルミュージアム所蔵の岡山城 下の段模型の写真」によれば 、下の段の旭川沿いにあり、台座となる石垣の様子から上の写真で台座が旭川方向に飛び出している部分から向こうに向かって伸びていたと推測した。
05/28/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 槍櫓跡ー岡山城 本丸 下の段ー 岡山城 本丸の槍櫓跡は、現地に案内版が無い為、明確な位置は不明であるが、下の段 供腰掛に展示されている「岡山デジタルミュージアム所蔵の岡山城 下の段模型の写真」によれば 、下の段の旭川沿いにあり、台座となる石垣の様子から上の写真で中央に見える台座がそれに当たるのではないかと推測した。
05/28/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 旗櫓跡ー岡山城 本丸 下の段ー 旗櫓は岡山城 本丸 下の段の南東の隅に建てられていた。下の段 供腰掛に展示されている「岡山デジタルミュージアム所蔵の岡山城 下の段模型の写真」によれば 、旗櫓は三層であったことが分かる。一方、巌津政右衛門著の「岡山城 そ […]
05/28/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 宍粟櫓跡ー岡山城 本丸 下の段ー 岡山城 宍粟櫓(しそうやぐら)は、下の段の中門を入ってすぐ右側の内堀沿いに建てられた三層櫓。
05/27/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 舂屋櫓跡ー岡山城 本丸 下の段ー 舂屋櫓の「舂屋」をコトバンクで調べてみると「穀物を精製する小屋。」「米つきを業とする家。また、その人。」などと記載されており、舂屋櫓跡は、そのような施設のあった櫓跡またはそのような施設が近くにあった櫓跡と考えられる。下の写真からは、下見板を張った壁面の二層櫓であったことが分かる。
05/26/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 供腰掛ー岡山城 本丸 下の段ー この建物はもともとこの位置にあった「供腰掛」と呼ばれる建物を再現したもの。供腰掛は登城する藩士の家来たちが藩士の用事がすむまで待機するための建物で、城内 絵図から判断して土間に縁台を設けただけの簡素な建物であったと思われる。発掘調査では基礎や雨落ち溝、礎石の一部が見つかっている。
05/26/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 太鼓櫓跡ー岡山城 本丸 下の段ー 岡山城 太鼓櫓(三層櫓)は、内堀の目安橋(現在は土橋)を本丸 下の段に入った所にあった内下馬門に続く石垣の南西の隅にあった。岡山市では、内下馬門と共に数年中の再建計画を表明している。
05/25/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 内下馬門跡ー岡山城 本丸 下の段ー 目安橋で内堀を渡った先に岡山城 本丸跡へ入る桝形が残っているが、ここには岡山城の大手門に当たる門として最大級の櫓門である内下馬場門が建てられていた。南向きに高麗門があり、高麗門を入って桝形の石垣内を左に曲がった所に石垣を南北にまたいで東に向かって渡櫓門が配されている。桝形門を形成した高麗門と渡櫓門を併せて内下馬門(大手門)と称していた。
05/25/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 内下馬門跡の石垣ー岡山城 本丸 下の段ー この内下馬門跡の石垣付近は本丸の正門があったところで、城の威厳や大名の権力を誇示するために、巨石が組み込まれている。最大の石は、高さ4.1メートル、幅3.4メートルであるが、厚みはなく、板石を立てたものである。
05/25/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 目安橋ー岡山城ー 岡山県立図書館 駐車場入り口の前にある岡山城 目安橋は、大手(表口)側から本丸へ通じる橋で、池田光政の代に、橋のたもとに領民からの投書を受け付けるための目安箱(めやすばこ)が置かれたことからこの名がついた。橋は明治になっ […]
05/24/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 数寄方櫓台の石垣ー岡山城ー 数寄方櫓台の石垣は、切り出した石材だけを用いて築いた打込接で隅部は大きさの揃った長い石を互い違いに積み上げた算木積みである。勾配も急な新式石垣。ー算木積みは、慶長8年(1603年)に確立された積み方であるー
05/24/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 小納戸櫓下の石垣ー岡山城ー この小納戸櫓下の石垣は、池田忠雄が1620年代に築いた石垣で、搦手の廊下門を守る小納戸櫓が上に建っていた。一帯の石垣の石材は犬島から運ばれたとみられる割石で「○の中に十の字」や「L」字形などの刻印を持つものがある。
05/23/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 大納戸櫓台の石垣ー岡山城ー この大納戸櫓台の石垣は、関ヶ原合戦後に、小早川秀秋が築き、池田利隆が大幅に改修したとみられる石垣である。加工をあまり施さない自然石を用いているが、上部ほど傾斜が強くなる特徴を持っている。上には建っていた大納戸櫓は、南北長20メートル、三階建ての雄大な建築であった。
05/23/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 中の段南西の石垣ー多門櫓(南)下ー この中の段南西の石垣は、関ヶ原合戦後に小早川秀秋が築き、続く池田忠継の時に改修された石垣で、左隅は1620年代に池田忠継が築いた割石積みの石垣が被さっている。あまり加工を施さない石材を緩い角度で積むのが特徴で、高さは11mある。
05/23/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 月見櫓 脇石 狭間ー岡山城ー この月見櫓脇石狭間は、池田忠勝が1620年代に築いた石垣の最上部に、土塀の基礎を兼ねた形で適切な間隔で鉄砲狭間を穿った長い石を横一列に並べて作っている。江戸時代に入って再築された大坂城に使われた最新工法を応用している。
05/23/2021 / 最終更新日時 : 05/23/2021 桃太郎 城跡 月見櫓の石落しー岡山城ー 岡山城 月見櫓の一階には、北側と西側の西面に石落し(俯射装置)付きの唐破風造りの出格子窓を設けて城外側への臨戦の備えをなしている。
05/23/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 月見櫓下の石垣 この月見櫓下の石垣は、池田忠勝が1620年代に築いた石垣で、上には月見櫓が建っている。隅部は表面を特に平らに整えた方形の割石を配し、その長辺を交互に振り分けた算木組みとなっている。石材は白色度の強い花崗岩で、瀬戸内海に浮かぶ犬島(岡山市東区犬島)で切り出されたものとみられる。
05/21/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 岡山城 金鯱瓦(きんしゃちがわら) 岡山城の金鯱瓦は、天守が昭和41年(1966年)に再建された時に制作取り付けられ、平成9年(1997年)に築城400年で改修された時に金箔が張られた。天守閣内に展示しているものと同じものが現在天守の屋根に掲げられている。金箔は漆を接着剤にして貼られている。
05/21/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 不明門下の石垣ー岡山城 本段(上の段)ー この不明門下石垣の右隅は宇喜多秀家期の石垣に被せて造られており、関ヶ原合戦後の小早川秀秋期か前池田期に築かれたものとみられる。上部は不明門を建てた時に積み足され、中ほどの一部は天保9年(1838年)に崩れて修理を受けている。
05/21/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 岡山城 塩蔵 塩蔵は、その名の通り1階は塩などを貯蔵する倉庫として使用していた。現在の天守閣の入り口は、正面になっているが、第二次世界大戦による焼失前の天守閣では、この部分は石垣となっており、塩蔵の南側入口を入った所に直接塩蔵の2階に上がる階段があり、塩蔵2階から漆喰塗りの丈夫な両開きの土戸を介して天守閣の1階へ通じていた。
05/20/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 岡山城 天守台の石垣 岡山城 天守台の石垣は、宇喜多秀家が慶長2年(1597年)までに築いた石垣で、加工を施さない自然石を用い、高さは14.9mである。この位置は、岡山のもとの崖面に当たり、石垣の背後はその堅い地山に持たせている。
05/20/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 岡山城 塩蔵下の石垣 この岡山城 塩蔵下の石垣は、背後の高石垣がせり出してきたため、補強の目的で元禄年間(1688年~1703年)に築かれた。丁寧に面を整えた割石を横積みにして、最上段の石材は隅を丸く加工しているのが特徴である。
05/19/2021 / 最終更新日時 : 06/01/2021 桃太郎 城跡 六十一雁木門横の石塁ー岡山城 本丸ー 岡山城 六十一雁木門横の石塁は、関ヶ原合戦後の池田氏が下の段を大がかりに整備した時に築かれた石塁である。板状の大石を立てて組み込んだ部分が特徴的である。石塁の先の上端から本段石垣の中位に櫓門が架けられていた。
05/19/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 六十一雁木下門跡ー岡山城 本丸 本段(上の段) 岡山城 六十一雁木下門は、本丸 下の段から直接本丸 本段(上の段)に通じる石段の下に建っていた。前方に見える門は、六十一雁木上門(別名 要害門)で門を開けるとすでに本段となっており、本段御殿に勤める者の通用口として使われていた。
05/18/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 干飯櫓跡ー岡山城 本丸 本段(上の段)ー 岡山城 本丸 本段(上の段)南東面に建つ干飯櫓は、横長の入母屋造の上に望楼を乗せた古式な二重櫓で、正面の大きな唐破風と出窓格子に特色がある。
05/18/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 岡山城 本段(上の段)南東の高石垣 この岡山城 本段 南東の高石垣は、宇喜多秀家が慶長2年(1597年)までに築いた石垣で、加工を施さない自然石を用いている。隅角は岩盤の高まりに載っているが、西寄りでは石垣の基底が3m近くも埋まっていて、本来の高さは15.6mもある。関ヶ原合戦以前の石垣としては全国屈指の高さである。
05/17/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 三階櫓跡ー岡山城 本丸 本段ー 三階櫓は、岡山城 本丸 本段(上の段)で最も南に位置していた三層四階の大型の櫓で、三階櫓の東側には干飯櫓が並んで建っていた。
05/17/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 岡山城 本段(上の段)東側の高石垣 この岡山城 本段(上の段)東側の高石垣では、宇喜多秀家が築いていた石垣の隅角部に、小早川秀秋が石垣を継ぎ足して直線状(平面状)に改修した跡が観察できる。秀家は安定性の高い大形の石材をきちっと積んでいる(向かって左側)のに対し、秀秋は丸みの強い石材を粗雑に積んでいる。
05/17/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 長屋続櫓跡ー岡山城 本丸 上の段(本段)ー 長屋続櫓は、岡山城 不明門から石段を登った正面奥、上の段(本段)の旭川に面した石垣上に建てられていた。説明版が無くこの櫓に関した記述も見当たらない為詳細は不明であるが、続櫓という名前から考えて、多門櫓の一種であったのではないかと想像される。
05/16/2021 / 最終更新日時 : 05/24/2021 桃太郎 城跡 岡山城 本丸 中の段(表書院) 岡山城 本丸 中の段は上の段(本段)の西側に、上の段より一段低いところに築かれ岡山藩の政治の場であると共に藩主の公邸である表書院(表向御殿)が多くを占めている。宇喜多時代に一部が築かれ、小早川時代に南部分、池田時代に北部分と藩主交替の度に拡張され現在の中の段になっている。
05/15/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 表書院(表向御殿)跡ー岡山城 本丸 中の段ー 岡山城 本丸 中の段にあった表書院は、岡山藩の政治が行われた建物で、数棟からなり、大小60を越える部屋があった。登城してきた家臣らは玄関から入り、広い廊下を通って奥へ進み、それぞれ所定の部屋に詰めていた。藩主は、住居である本段の御殿から渡り廊下を通って北西の招雲閣に入り、南座敷で政務を執っていた。
05/14/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 岡山城 中の段 井戸 岡山城 中の段にある井戸跡。表書院の台所や泉水の水源は、地中に竹の管を埋めてこの井戸からサイフォンの原理で給水していたとのこと。
05/13/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 伊部櫓跡ー岡山城 中の段ー 伊部櫓(いんべやぐら)は、白壁造りの三階建ての櫓で、平面は正方形だった。石塁に寄せ掛けて建っていたため、城外からは二階建てに見えた。備前焼の生産で栄えていた伊部村(現 備前市伊部)によって建造された櫓ではないかともいわれている。
05/13/2021 / 最終更新日時 : 05/24/2021 桃太郎 城跡 数寄方櫓跡ー岡山城 中の段ー ここに建てられていた数寄屋櫓は、白壁造りの三階建ての櫓だが、伊部櫓(いんべやぐら)と同じように石塁(せきるい)に寄せ掛けて建っていたため、域外からは二階建てに見えた。近くには表書院の数寄屋跡(すきや)(茶室)があることからこの数寄屋で使う茶道具類が保管されていたのではないかと思われる。
05/13/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 多門櫓跡ー岡山城 中の段 北側ー この多門櫓跡(北)は、伊部櫓と数寄方櫓(すきかたやぐら)の間に建てられた長さ30m、幅5mの二階建ての長屋で、石塁の上は平屋となっていた。白漆喰の壁には格子窓(こうしまど)が5ヶ所、石落としが2ヶ所設けられていた。
05/12/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 岡山城 中の段 表書院 泉水 この写真は、岡山城 表書院の中庭にあった泉水を復元したもので、発掘調査で出土した遺構は地下に保存されている。水が漏らないように底に漆喰(しっくい)を貼り、北東の井戸から備前焼の土管で給水する仕組みで、中の島に湧水口(ゆうすいこう)を設けていた。
05/10/2021 / 最終更新日時 : 05/23/2021 桃太郎 城跡 多門櫓跡ー岡山城 中の段 南側ー 石畳の上に建てられた長屋を多門櫓という。大納戸櫓と伊部櫓の間には長さ37m、幅4mの平屋の多門櫓が建っていた。壁には下見板が張られ、格子窓や石落としが設けられていた。
05/09/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 宇喜多秀家築城当時の石垣ー中の段西面ー この石垣は、宇喜多秀家築城当時の石垣で当時の中の段西面となっていたものと思われる。石垣の本来の高さは10mほどあり、下の段から積まれている。頂部は崩れているが上方の高さ約3m分を露出展示している。石は主に花崗岩で、加工を施さない自然石を横向きに積んでいる。
05/09/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 岡山城 本丸 中の段の時代による遷移図 今回の発掘調査で掘り出された、宇喜多秀家築城当時の石垣は、上の図からも分かる通り、北へはここから25mほど真っ直ぐ延び、そこで103度の角度で北東に折れ、中の段北東で、こことは別に露出展示している石垣に繋がっている。
05/09/2021 / 最終更新日時 : 05/09/2021 桃太郎 城跡 岡山城 本丸 中の段から出土した金箔瓦の写真 岡山城 本丸 中の段の平成8年度発掘調査で、西面の石垣を埋め込んだ造成土から、金箔をおした桐の文様の瓦が出土した。桐は宇喜多秀家が豊臣秀吉が家紋として与えられたもので、宇喜多秀家期の中の段には、こうした瓦を葺いた華麗な建物があったことがわかる。
05/07/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 宇喜多秀家築城当時の石垣ー中の段北東部ー この石垣は、宇喜多秀家が岡山城を築城した時の石垣で、その後江戸時代の初めに中の段を北(手前)に向かって広げた時に埋め込まれていたのが、平成5年度の発掘調査で見つかった。自然の石をほとんど加工しないまま用いている。石垣の角が70度と鋭角に尖っているのが特徴で全国的にも珍しい。
05/06/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 廊下門の表書院(中の段)側出入口 岡山城の廊下門は、藩主の私邸(御殿)がある本段(上の段)と公邸がある書院(中の段)を結ぶ城主の通路として造られていたが、この写真は書院のあった中の段側の出入口を写したものである。
05/06/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 台所にあった流しー岡山城 本丸 中の段ー この凝灰岩を刳り抜いて作った流しは、岡山城 本丸 中の段 藩主の公務の場である表書院の台所にあったもの。明治維新で表書院が壊されたときにここに放置されたらしい。
05/06/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 穴蔵ー岡山城 本丸 中の段ー 岡山城 本丸 中の段 月見櫓横にある、この穴蔵穴蔵(あなぐら)は、香川県豊島(てしま)産の凝灰岩(豊島石)の切石で造られており幅3.8m、奥行2.0m、深さ2.3mある。もとは屋根があり、非常用の食料を保存していたのではないかと考えられている。
05/06/2021 / 最終更新日時 : 05/24/2021 桃太郎 城跡 小納戸櫓跡ー岡山城 中の段ー 小納戸櫓は、本丸の搦め手(からめて)にある廊下門に迫る敵を迎え撃つために設けた櫓。白壁造り二階建て、平面は正方形で、一階の壁には格子窓と石落としが設けられていた。この櫓の西と南にはそれぞれ平屋の多門櫓が続いていた。
05/05/2021 / 最終更新日時 : 05/28/2021 桃太郎 城跡 大納戸櫓跡ー岡山城 中の段ー 大納戸櫓は、本丸の大手を守る要となる三重四階建ての城内最大の櫓で、一階の平面は長辺(南北)20m、短辺10mで、壁には黒い下見板が張られており、藩政のための書類や道具類が保管されていた。
05/05/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 岡山城 鉄門跡 岡山城 鉄門は、下の段の南面から表書院(中の段)正面へ通じる切妻造りの櫓門。1階部分が木部の全体を鉄板でおおった堅固でいかめしい造の門であったことからこの名が付いたといわれている。
05/05/2021 / 最終更新日時 : 05/23/2021 桃太郎 国指定重要文化財 国指定重要文化財 岡山城 月見櫓 昭和8年1月23日指定 岡山城 月見櫓は、岡山城本丸跡に現存する唯一の櫓で、池田忠雄ー元和元(1615)年~寛永9(1632)ーによって建てられた。城の裏口を守る目的の建物であったが、平時にも月見を始めとした四季の眺望と小宴を催すのに格好の構造となっている。岡山城内にあった櫓の中で最も新しく優美であったと言われている。
05/03/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 岡山城 本丸 本段(上の段) 岡山城 本丸 本段(上の段)は、岡山城本丸で最も高いところにあり、北端に天守閣が、中央付近に城主の私的な生活に必要な建物である御殿を有していた。本段の御殿へは一般の藩士の出入りは厳しく禁止されており、藩主は廊下門などの渡り廊下を、御殿勤めの者は六十一雁木門を使用していた。
05/03/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 廊下門ー岡山城ー 岡山城の廊下門は、上屋が本段(住居)と中の段表書院(藩庁)とを結ぶ城主の通路として使われたためこう呼ばれた。城主は、誰とも顔を合わせることなく私邸から公邸へ移動することが出来たということである。昭和41年に、鉄筋コンクリートで再建された。
05/03/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 不明門ー岡山城ー 岡山城 不明門(あかずのもん)は、岡山城本丸、中の段ー表書院(藩庁)ーから最上段にある藩主の日常生活を営む御殿(住居)に上る正門であったが、特に限られた身分の人しか通ることができなかった。普段は門扉が閉ざされていたことから不明門と呼ばれていた。
05/02/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 天守閣の礎石 天守閣の礎石ー岡山城の天守閣は昭和20年6月の戦災で焼失、昭和41年(1966年)に元の位置に鉄筋コンクリートで再建された。その為礎石をここに移して元の通りに配置している。
05/02/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 六十一雁木上門 六十一雁木上門は、岡山城本丸の内、天守閣や城主の住まいである御殿のある、本段から直接旭川側の下の段に通じる門で、前方の石段がもとは61段あったことからこの名がついたと考えられている。現在は無いが石段下の下の段には、六十一雁木下門があった。
04/27/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 岡山城 天守閣からの眺め 岡山城天守閣からは、大名庭園としてよく知られた岡山後楽園は勿論、城と後楽園の間を流れる旭川、そして岡山市街とそれを取り巻く周囲の丘陵を眺めることができる。従って、岡山市内観光をする前や後に訪れれば、岡山市の概要を体感的に掴むには最適の所である。
04/27/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 岡山県庁・県立図書館方面ー岡山城 天守閣よりー 岡山城 天守閣から南方には岡山県政の中心である岡山県庁と岡山県立図書館がある。JR岡山駅に近い「イオンモール岡山」前の市役所筋から岡山県庁前を取り旭川を渡った先にある国道250号線までは、県庁通りと呼ばれる道路がまっすぐに貫いている。
04/27/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 岡山市中心部・石山城跡方面ー岡山城 天守閣よりー 岡山城 天守閣から見て西方から南西方面には、江戸時代山陽道が通り城下町岡山の賑わいの中心であった表町商店街が通り、西方には宇喜多直家時代の岡山城(別名 石山城)跡が見える。表町商店街の中心には天満屋百貨店があり、南端の千日前には2023年夏頃の完成を目指して「岡山芸術創造劇場」を核とする町の再開発ビルの建設が進んでいる。
04/27/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 石山公園・シンフォニーホール方面ー岡山城 天守閣よりー 岡山城天守閣から西方、JR岡山駅方面を眺めると円形の建物、岡山シンフォニーホールや旭川右岸に設けられた市民憩いの公園、石山公園を見下ろすことが出来る。この一帯は岡山カルチャーゾーンの一角を占めており、岡山県立美術館、岡山市立オリエント美術館、岡山県天神山文化プラザなどの文化施設が立ち並んでいる。
04/26/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 龍の口山方面ー岡山城 天守閣よりー 龍ノ口山は、岡山城下の北東部に位置する龍ノ口山丘陵のピークの一つで、北西麓の龍ノ口グリーンシャワー公園は、新緑や紅葉の季節には市民のハイキングコースとしても人気がある。山頂近くの展望スポットからは、南に横たわる操山丘陵や岡山市街地、よく晴れた日には遠く瀬戸内海まで見渡すことができる。
04/26/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 岡山城 本丸 本段方面ー岡山城 天守閣よりー 天守閣から南方を眺めた上の写真は、岡山城 本丸のうち、天守閣南部に広がる本段から旭川、その右岸に建てられた岡山県庁、岡山市街および岡山平野・児島湾を越えて向こうにある児島半島方面を眺めたものである。天守閣のある本段は、城主の生活の場所で御殿と築山や池のある庭園も造られていた。
04/25/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 主な庭園 岡山後楽園・旭川方面ー岡山城 天守閣よりー 岡山城 天守閣からは、岡山 後楽園全体の様子をとらえることができ、後楽園散策の前または後に訪れるには最適。岡山後楽園は、金沢 兼六園、水戸 偕楽園と並んで日本の三名園に数えられる回遊式の大名庭園で国指定名勝となっている。
04/25/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 操山・後楽園方面ー岡山城 天守閣よりー 操山は、岡山市街東部に横たわる標高169mの丘陵で岡山後楽園の借景であると共に、丘陵一帯は、岡山市の管理する操山公園で岡山市中心部から麓までは10分ほどで行くことのできる市民憩いの森をなっている。南麓には岡山藩主池田家の菩提寺曹源寺がある。
04/24/2021 / 最終更新日時 : 05/22/2021 桃太郎 城跡 岡山城 天守閣 岡山城の天守閣は、本格的な城づくりのスタートとされる織田信長の築いた安土城にならって作られた日本を代表する城郭建築で、天守閣の基壇(天守台)が、北(後楽園方向)に大きく突き出した、不等辺五角形という全国に全く例のない珍しい形をしている。
07/14/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 猿掛城跡 猿掛城築城のはじまりは東国の武将・庄太郎家長がこの地に地頭として赴任した際に当初、幸山城へ入ったが、防禦に不便として、元久2年(1205年)ごろ猿掛山へ新城を築いて移ったことによる。この城は天正10年(1582年)の高松城攻めの際に毛利輝元の本陣となったことでも有名。
07/12/2020 / 最終更新日時 : 07/12/2020 桃太郎 城跡 石鎚神社ー長良山城跡ー 石鎚神社は、長良山城の南の郭跡と言われる所に祀られている。 神社正面には、昭和5年に天皇陛下をお招きして行われた陸軍大演習の記念碑が。 右に福山城跡、幸山城跡、左に鷹ノ巣城跡のある日差山、正面には備中国分寺の背景となっている吉備路風土記の丘を見ることが出来る。
07/12/2020 / 最終更新日時 : 07/12/2020 桃太郎 城跡 八幡宮ー長良山城跡ー 長良山城跡の北の郭跡とされる所には現在八幡宮が祀られている。 ここからは、総社市街や岡山県立大学キャンパス、鬼ノ城跡、福山城跡、幸山城跡などを眺めることが出来る。
07/12/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 長良山城跡 長良山城跡は、室町時代初めここ服部郷を治めていた、世瀬川左衛門入道祐隣が、建武年間(1334~1338)に築いた城と伝えられている。高松城水攻めのあった頃の城主は、世瀬川祐隣の子孫で姓を禰屋(ねや)と改めた禰屋親光で、毛利方として参戦している。
07/10/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 毛利軍配置状況ー備中高松城水攻めー 羽柴秀吉軍の備中高松城水攻めの際、毛利・羽柴両軍は足守川を挟んで向き合った。毛利軍の配置は、境目(備中)七城を含めて、備中宮路山城跡、備中高松城跡、吉川元春陣跡、天神山陣跡、日差山陣跡、庭瀬城跡、松島城跡などである。
07/10/2020 / 最終更新日時 : 09/19/2020 桃太郎 史跡 羽柴軍配置状況ー備中高松城水攻めー 羽柴秀吉軍の備中高松城水攻めの際、毛利・羽柴両軍は足守川を挟んで向き合った。羽柴秀吉軍の配置は、鍛冶山城、冠山城、加藤清正陣、津田与左衛門陣、宇喜多忠家陣、羽柴秀勝陣、仙石権兵衛陣、羽柴秀吉本陣、堀尾茂助陣、羽柴秀長陣、花房助兵衛陣、加茂城、日幡城などである。
07/09/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 境目七城(備中七城)ー備中高松城水攻めー 「境目七城」は別名「備中七城」とも呼ばれ、中国地方の雄毛利氏が織田軍との戦いに備え整備した防衛ラインで、南から松島城・庭瀬城・日幡城・加茂城・高松城・冠山城・宮路山城の七つの城を併せて名付けられた。
07/07/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 花房助兵衛陣跡ー備中高松城水攻めー 備中高松城水攻めで秀吉軍として活躍した花房助兵衛の陣跡(城跡)を探したが、案内図に詳細な表示が無かった為容易に見つけることが出来なかった。ここは、丁度歩いてこられた近くにお住まいの方にお聞きして探し当てた所。
07/07/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 冠山城跡ー備中高松城水攻めー 冠山城は羽柴秀吉の備中高松城水攻め時、毛利軍の「境目七城」の一つであった。時の城主は、林三郎左衛門重真、妻は清水宗治の娘。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、この冠山城攻めが官兵衛の長男「黒田長政」の初陣であったと放送された。
07/06/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 備中宮路山城跡ー備中高松城水攻めー 備中宮路山城は備中高松城水攻めの際毛利軍の「境目七城」の内の一つで、最も北に位置。黒田官兵衛らが降伏を呼びかけるも小早川隆景の家臣で城将として来ていた乃美元信は応じなかった。隣冠城の陥落後宇喜多家家臣の信原氏が開城を勧めついに開城した。
07/06/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 備中鍛冶山城跡ー備中高松城水攻めー 備中鍛冶山城は高松城水攻めの際、毛利氏の最前線「境目七城」の一つ宮路山城とは足守川を挟んで対岸にある城で、宇喜多氏側の延原(信原)氏が城主であったといわれている。当時宇喜多氏は織田方に寝返っており織田軍の最前線の城であったことになる。
07/05/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 日幡城跡ー高松城水攻めー 日幡城は、羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際、中国地方の雄毛利氏が織田軍との戦いに備え整備した防衛ライン「備中七城」(庭瀬城・松島城・日幡城・加茂城・高松城・冠山城・宮路山城)の一つ。
07/04/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 加茂城二の丸跡ー備中高松城水攻めー 加茂城は天正10(1582)年の羽柴秀吉の備中攻略ー備中高松城水攻めーに際し毛利方が備中南東部の国境沿いに備えた「境目七城」のひとつで、桂広繁・上山元忠・生石治家が立て籠りましたが、秀吉軍の攻撃にあって城中で内紛が起き、ついに落城したと伝えられます。
07/02/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 松島城跡ー備中高松城水攻めー 松島城は備中高松城水攻め時における毛利軍「境目七城」の一つであったが高松城からは遠く水攻めの時は、秀吉軍に攻撃される事無く織田方と毛利方の和睦となった。現在、川崎医療短期大学の敷地となっているあたりが松島城跡とされている。
06/30/2020 / 最終更新日時 : 06/30/2020 桃太郎 史跡 両児神社(ふたごじんじゃ)ー松島ー ここ両児(ふたご)神社は、約1,800年前、神功皇后が三韓征伐の帰り、戦勝と、筑前国譽田の宮にて誕生した二歳の皇子の安泰を祈願された二子の宮ー当時は高鳥居山(ここから数キロ北)に鎮座ーを約1,200年前称徳天皇の時代に遷座した神社。
06/29/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 羽柴秀長陣跡ー鼓山ー備中高松城水攻めー 羽柴秀吉の弟秀長が陣を張った所ー高松城水攻関連史跡・皷山陣所跡・つづみ山城跡(海抜118m)ー天正10(1582)年4月 織田信長の命により備中へ進攻した秀吉の左翼をかためる弟・羽柴秀長が山陽道からの毛利軍に対して布陣した所である。
06/19/2020 / 最終更新日時 : 06/24/2020 桃太郎 史跡 生石神社 生石神社ー祭神 主神ー応神天皇 神功皇后 玉依媛命 今から1200~1300年も前からこの地区の氏神様であった。奈良時代の神名帳にも残されている。社殿は南北朝末期頃建てられた。
06/19/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 加藤清正陣跡ー報恩寺山ー備中高松城水攻めー 備中高松城水攻め時、生石神社のある報恩寺山に加藤清正が陣を構えた。西脇には足守川が流れている。水攻めにあたり川向こうに400m程の副堤を築き、陣前付近を水攻めの水取り口とし足守川を閉鎖、備中高松城を孤立させた。
04/19/2020 / 最終更新日時 : 07/09/2020 桃太郎 史跡 備中高松城跡 備中高松城は、備前国に通じる平野の中心、松山往来沿いの要衝の地にあり、天正10(1582)年、中国の役の主戦場となった城跡で、羽柴秀吉により水攻めをされ、城主清水宗治公が家来達の助命を願って切腹した城として有名である。
04/18/2020 / 最終更新日時 : 04/23/2020 桃太郎 史跡 清水宗治公首塚 高松城水攻めにより自刃した清水宗治公の首級は、秀吉の本陣にて首実検、本陣脇に葬られ五輪塔が建立されたといわれている。その後、地元の人々により公の顕彰へと進展、明治42年にここ備中高松城本丸跡へ首塚の移築がなされた。
04/17/2020 / 最終更新日時 : 04/23/2020 桃太郎 博物館・資料館 高松城址公園資料館 高松城址公園資料館は、備中高松城址内にある歴史資料館で、織田信長の命により羽柴秀吉が備中高松城水攻めをした際の資料を中心に展示すると共に、ボランティア活動の拠点にもなっている。
04/17/2020 / 最終更新日時 : 04/23/2020 桃太郎 史跡 宗治蓮 宗治蓮は、岡山市が昭和57年に備中高松城跡を歴史公園として造成するにあたり、本丸と二の丸との間にある蓮池と呼ばれている所の沼を復元した際、その沼に自然に蓮が生えてきた蓮に名付けられた名前。
08/20/2018 / 最終更新日時 : 08/20/2018 桃太郎 城跡 小丸山 小丸山は従来、周囲に周濠を廻らしている前方後円墳と言い伝えられてきましたが、平成3年の岡山市教育委員会の調査では、古墳説を裏付ける資料は発見されませんでした。 しかしながら、形状等から中世の城砦(辛川城の支城とも)である […]
06/19/2018 / 最終更新日時 : 06/19/2018 桃太郎 城跡 城山稲荷神社ー倉敷城跡ー この付近は、戦国時代まで小野城という砦があった所。この城山稲荷神社は、明応2年(1493)に当時の城主小野好信が伏見稲荷を勧請して祠ったのが始まりで、元和5年(1619)になって城山稲荷大明神と命名され、江戸時代を通じて霊験あらたかな神としてこの地の人々の信仰を集めた。
06/10/2018 / 最終更新日時 : 06/12/2018 桃太郎 城跡 荒平山城跡からの眺望 飛鳥時代に創建された岡山県最古の寺院秦廃寺で知られた総社市秦地区の西に横たわる城山(標高約191m 荒平山城跡)からの眺望。そこから見えるのは、中国山地に源を発し吉備高原を侵食しながら流下、突如広がる開口部に流れ出た高梁 […]
06/09/2018 / 最終更新日時 : 06/10/2018 桃太郎 城跡 荒平山城跡の縄張ー城郭配置ー 川西氏の城とされる荒平山城跡は連郭式の山城跡でその縄張は北から南に向かって一ノ壇、二ノ壇、三ノ壇、四ノ壇、五ノ壇、七ノ壇と並んでおり六ノ壇は五の壇付近の西側にある。七ノ壇の南側は深い堀切となっており南から尾根伝いに侵入してくる敵の侵入を防ぐようになっている。
06/09/2018 / 最終更新日時 : 06/12/2018 桃太郎 城跡 荒平山城跡 荒平山城跡は、総社市秦の西部に横たわる城山(標高約191m)の山頂に永享年間(1429~1440)に地元の豪族川西氏によって築かれた山城跡。天正年間(1573~1585)の備中兵乱期、川西氏が三村氏に味方したため、天正3年(1575)に毛利方の小早川隆景に攻められ、城主川西是之秀は城兵の助命を条件に降伏、開城し、讃岐へ落ちのびた。
06/04/2018 / 最終更新日時 : 06/06/2018 桃太郎 城跡 南山城跡ー倉敷市ー 南山城跡は、戦国時代(約440年前)に毛利軍が築いた城跡。高梁川と小田川との合流点に位置、北方には中世の山陽道が通り、当時は高梁川が瀬戸内海へ流出する河口近くでもあったことから、陸、河川、海上交通の要衝に築かれた城であったと考えられている。