04/20/2021 / 最終更新日時 : 04/22/2021 桃太郎 史跡 吉備の中山と古墳 吉備の国は大和の国や出雲の国と並ぶ勢力を持ち、その中心が吉備の中山といわれてきた。この山には、最古級の前方後円墳とされている大和の箸墓古墳よりもさらに古い前方後円墳との説もある矢藤治山古墳をはじめ、吉備津彦命の墓ではないかとされている中山茶臼山古墳など多くの古墳が造られている。
04/16/2021 / 最終更新日時 : 04/22/2021 桃太郎 史跡 大守大藤内家宅跡 備前の豪族難波氏の一族大守氏(おおもりし)の家宅跡。平安時代から明治まで代々大藤内(おうとうない)ー王藤内とも書くーを名乗り、備前吉備津宮(現在の吉備津彦神社)の社家頭(筆頭の神職)を継ぐ家柄。
04/08/2021 / 最終更新日時 : 04/20/2021 桃太郎 史跡 国指定史跡 尾上車山古墳 昭和昭和47年7月29日指定 尾上車山古墳ー全長138.5m、後円部径96m、同高約11m、前方部幅52m、同高9mを測る前方後円墳で、ギリギリ山古墳とも呼ばれている。吉備中山南東部、標高約五十メートルの尾根部先端に位置する。
04/06/2021 / 最終更新日時 : 04/06/2021 桃太郎 史跡 犬養木堂(毅)生家 犬養毅(木堂)は、安政2年(1855)この地に生まれた。明治23年(1890)36歳で衆議院議員に初当選し、以後、憲政擁護運動の先頭に立った。昭和6年(1931)内閣総理大臣となったが、翌年の5月15日首相官邸において兇徒に襲われ(5.15事件)「話せばわかる」の言葉を最後に志なかばにして没した。
04/06/2021 / 最終更新日時 : 04/06/2021 桃太郎 史跡 木堂塾 木堂塾ー犬養毅(木堂)は、明治元年(1868年)に父親を亡くした後、門脇の部屋で近所の子供たちに読み書きを教えていたというエピソードが残っていた。この木堂塾はこのエピソードを受けて昭和56年(1981年)に建設された。木堂塾は、文化的な学習・研究会・講座や集いなどの場として利用することが出来る。
04/05/2021 / 最終更新日時 : 04/05/2021 桃太郎 史跡 ハナノキー犬養木堂生家ー 木堂がこよなく愛したといわれるハナノキが木堂生家裏 木堂塾横、犬養木堂記念館への通路横にある。ハナノキはカエデの一種、長野・岐阜・愛知の県境地域と長野県大町市にのみ自生する雌雄異株の落葉高木でハナカエデともいわれ3月末から4月初めにかけて珍しい形の赤い花を咲かせ、秋には葉が鮮やかに紅葉または黄葉する。
04/03/2021 / 最終更新日時 : 04/06/2021 桃太郎 史跡 犬養毅(犬養木堂)の墓と顕彰碑 五・一五事件で凶弾に倒れた犬養毅(犬養木堂)の墓と顕彰碑が生家近くの先祖代々の墓地の中にある。毅の墓の左隣には政治家(法務大臣)であり小説家でもあった三男の犬養健(たける)の墓も並んで建てられている。
03/28/2021 / 最終更新日時 : 04/19/2021 桃太郎 仏閣ー寺院ー 庚申山 帝釈天 ここに祀られている庚申山 帝釈天は、宝暦年間(1751年~1764年)正法寺8世 観達院日道上人の代に、ここ庚申山の山頂近くに帝釈天堂を建立、それまで正法寺に祀られていた藤原成親信仰の帝釈庚申天を移転したのが始まり。
03/26/2021 / 最終更新日時 : 04/20/2021 桃太郎 史跡 矢藤治山古墳(やとうじやまこふん) 矢藤治山古墳は、吉備中山の南面する尾根上に築かれた前方後円墳で、前方部が撥形を呈しているのが特徴。終末期の特殊器台と特殊壺が数多く発見されたこと、棺内・外から発見された副葬品、それに撥形の前方部という特徴から弥生時代終末期~古墳時代初頭頃の築造と推定され、全国でも最古型式の前方後円墳であり吉備における最も重要な遺跡の一つと考えられている。
03/22/2021 / 最終更新日時 : 04/22/2021 桃太郎 仏閣ー寺院ー 有木の別所ー有木山ー 有木の別所は、吉備の国の中心に位置し信仰の対象でもあった吉備の中山のうち、有木神社、青蓮寺、高麗寺などの寺社と関連施設のあった現在の福田海本部付近を中心に、有木山一帯を総称して呼ばれていたようで、平安時代には京の都にも広く知られていたと思われる。
03/22/2021 / 最終更新日時 : 03/31/2021 桃太郎 仏閣ー寺院ー 有木山ー吉備の中山ー 有木山は、吉備国の中心にあり古代からあがめられてきた吉備の中山を構成する山の一つで、平安時代には有木神社、高麗寺、青蓮寺などが立ち並び脇には細谷川が流れる有木の別所として都にまで知れ渡り、数多くの和歌にも詠まれている。
03/21/2021 / 最終更新日時 : 03/21/2021 桃太郎 仏閣ー寺院ー 藤原経衡歌碑ー福田海ー 藤原経衡歌碑ー「祈ること しるし有木の 山なれば 千とせの程も たのもしき哉」筑前守従五位上藤原朝臣経衡鼻ぐり塚で知られた福田海の境内、易塚の入り口右手に建てられた歌碑。この和歌は、大嘗会和歌集に載せられている平安中期の歌人藤原経衡の歌。
03/21/2021 / 最終更新日時 : 03/21/2021 桃太郎 仏閣ー寺院ー 平賀元義歌碑ー福田海ー 平賀元義歌碑ー「あたらこの 成親がごと よき臣を 有木の山の うもれ木にして」元義詠 古杏書 鹿ケ谷での平家討伐の謀議が露見、この地高麗寺 有木の別所に配流、あえない最期を遂げた大納言 藤原成親卿について詠んだ江戸末期の歌人平賀元義の歌碑。福田海、鼻ぐり塚近くに置かれている。
03/20/2021 / 最終更新日時 : 03/20/2021 桃太郎 仏閣ー寺院ー 鼻ぐり塚の古墳開口部ー福田海ー 鼻ぐり塚の古墳開口部ー鼻ぐり塚は円墳の上に鼻ぐりを納めたものだが、その円墳の正面開口部には馬頭観音が祀られている。
03/20/2021 / 最終更新日時 : 03/20/2021 桃太郎 仏閣ー寺院ー 鼻ぐり塚の鼻ぐりー福田海ー 鼻ぐり塚の鼻ぐりー福田海の鼻ぐり塚に納められた鼻ぐり。鼻ぐりは牛を飼うにあたり牛を動かしたり柱や木に留め置くため、鼻に穴を穿ち鼻輪(鼻ぐり)をはめそれに綱を結んで使われていた。
03/16/2021 / 最終更新日時 : 04/20/2021 桃太郎 仏閣ー寺院ー 円墳ー鼻ぐり塚ー 牛の鼻輪(鼻ぐり)を集めて浄祭し、円墳の上に積み上げたため鼻ぐり塚と呼ばれている。薬師寺慎一著「吉備の中山と古代吉備」(吉備人出版)には、この古墳は近くにある不動岩と密接な関係があるのではないかと書かれている。塚の前には馬頭観音の他牛と豚の像も置かれている。
03/10/2021 / 最終更新日時 : 04/19/2021 桃太郎 史跡 有木神社ー吉備の中山ー 有木神社はかって吉備の中山の有木山山麓に祀られていた神社。現在は鼻ぐり塚で知られた福田海の敷地内に小さな祠が残るのみとなっている。しかし、有木神社についてよく調べてみると非常に興味深い事が分かってきた。
03/07/2021 / 最終更新日時 : 03/07/2021 桃太郎 仏閣ー寺院ー 有木山青蓮寺石碑 吉備津神社から、吉備津彦神社へ行く道路を少し歩くと右の石垣の上に「有木山青蓮寺」と書かれた標柱石が見える。有木山は「平家物語で鹿ヶ谷の謀議にやぶれ、流配の身となり最期を遂げた大納言 藤原成親の流配の地有木の別荘」で知られた所であり、高麗寺や青蓮寺跡でもある。
03/04/2021 / 最終更新日時 : 03/04/2021 桃太郎 史跡 門前町宮内(もんぜんまちみやうち) 門前町宮内ー宮内とは江戸時代の備中国賀陽郡宮内村のこと。備中国一宮の吉備津神社の門前町が起源。江戸時代になると、宮内は門前町として栄え、山陽道でも屈指の遊興街を形成していた。井原西鶴の著した「好色一代女」にも備中宮内として出てくる。
03/04/2021 / 最終更新日時 : 03/04/2021 桃太郎 史跡 神領会所(じんりょうかいしょ) 神領会所ー江戸時代、三代将軍徳川家光から交付された朱印状によって御朱印領となった宮内村を支配するための会所跡。神領役所ともいわれ、江戸時代の絵図によると、長屋門をくぐって広場となり、その南側に屋敷を構えていた。
03/04/2021 / 最終更新日時 : 03/04/2021 桃太郎 史跡 藤井高尚旧邸(ふじいたかなおきゅうてい) 藤井高尚は、江戸時代後期の吉備津宮の社司(しゃし)で、著名な国学者であり、本居宣長の高弟でもあった。高尚は自分の屋敷を師宣長の「鈴屋(すずのや)にならって「松の屋」と称した。中国地方をはじめ、京都、四国にも多くの弟子があり、王朝文学を教えている。
03/04/2021 / 最終更新日時 : 04/19/2021 桃太郎 史跡 新宮社跡ー吉備の中山ー 新宮社跡ー吉備武彦命を祀っていた神社で平安時代の歌謡集「梁塵秘抄」に出てくる神社。明治時代の末までこの地に鎮座していたが現在は吉備津神社の摂社である本宮社に合祀されている。
03/03/2021 / 最終更新日時 : 03/03/2021 桃太郎 史跡 岡山県指定史跡 伝賀陽氏館跡 伝賀陽氏館跡ー吉備の中山の西麓の新宮社跡西方にある、幅約30mの堀で囲まれた、東西約70m~75m、南北約60mの館跡。備中国の有力者で吉備津神社の神官を務めた賀陽氏の館跡と伝わり、中世の豪族屋敷の典型的な遺構である。現在は個人の人家があり周囲は畑地となっている。
02/23/2021 / 最終更新日時 : 02/23/2021 桃太郎 史跡 法螺貝の井戸ー吉備の中山ー 法螺貝の井戸ー福田海から藤原の成親遺跡へ上っていく途中、細谷川の丸木橋の石碑がある所を左にそれて、少し登った所にある霊水の湧き出る井戸。吉備の中山を守る会の説明によると、千年の昔から枯れたことのない井戸とのこと、有木の別所へ流されてきた藤原成親も飲んだのだろうか?
02/22/2021 / 最終更新日時 : 02/22/2021 桃太郎 史跡 備前・備中国境石ー吉備の中山ー 備前・備中国境石ー中山茶臼山古墳の正面歩道の右部に、備前と備中の境界を示す標柱がある。上の写真で境界石の左側向こう側に備中国、右手前側に備前国と刻まれている。
02/20/2021 / 最終更新日時 : 02/20/2021 桃太郎 史跡 両国橋ー吉備の中山ー 両国橋ー吉備の国はあまりにも強大であった為、吉備の中山のほぼ中央を流れる細谷川で備前国と備中国に分割されてしまった。この細谷川に架かっている橋が両国橋で、橋の脇には、「両国橋」の文字と共に明治の宰相山県有朋の歌が刻まれた石碑が立てられている。
02/20/2021 / 最終更新日時 : 02/20/2021 桃太郎 史跡 細谷川の丸木橋 細谷川の丸木橋ー吉備の中山の備前と備中の境目の川として知られた細谷川をさかのぼっていく途中に、平家物語で語られた平通盛小宰相の悲恋の物語を思い起こさせるかのように細谷川の丸木橋と書かれた石碑がある。
02/18/2021 / 最終更新日時 : 02/18/2021 桃太郎 史跡 八畳岩古墳ー吉備の中山ー 八畳岩古墳は、古墳時代末期の横穴式石室の古墳で、天井石は落ちている。平成24年5月の清掃中に見つけたもので、この古墳の西に天井部が平らで畳八畳ほどの広さの岩があり、八畳岩と呼ばれていたことから名付けられたものと思われる。
02/18/2021 / 最終更新日時 : 03/02/2021 桃太郎 史跡 ダイボーの足跡ー吉備の中山ー ダイボーの足跡ーダイボーとは大きな坊さん(大坊)を意味する言葉で、吉備の中山の尾根上にある長さ20m、深さ50㎝程窪地。まるで人の足跡のような形をしていることからこの名が付けられたものと思われる。
02/18/2021 / 最終更新日時 : 02/18/2021 桃太郎 史跡 藤原成親供養塔ー吉備の中山ー 藤原成親供養塔ー吉備津彦神社から吉備の中山への登山口付近の古墳上にあるこの五輪塔は、鹿ヶ谷事件で平清盛に捕らえられ、有木の別所で処刑された大納言藤原成親(1138年~1177年)の供養塔と伝えられている。
02/17/2021 / 最終更新日時 : 02/18/2021 桃太郎 史跡 藤原成親供養塔下古墳ー吉備の中山ー 藤原成親供養塔下古墳は、吉備津彦神社から吉備の中山に上る登山口付近にある古墳で、6世紀頃の古墳時代後期に造られた横穴式石室と考えられている。その名の通り、古墳の上には、藤原成親供養塔が安置されている。
02/15/2021 / 最終更新日時 : 02/15/2021 桃太郎 史跡 経塚ー吉備の中山ー 吉備国の中心とされる所にあり信仰の対象とされてきたという吉備の中山、その最高峰、竜王山山頂、八大龍王の両脇に鎌倉時代に経を筒に納めて埋納したとされる経塚がある。
02/15/2021 / 最終更新日時 : 02/15/2021 桃太郎 史跡 八大龍王ー吉備の中山ー 吉備の中山の最高峰龍王山(標高170m)の山頂に八大龍王の祠がある。龍神は雲をあやつり雨を降らせる力を持つとされ、雨の少ない岡山南部の農耕社会では重要である。この祠は、天明年間(1781年~1788年)の大干ばつの時、岡山の商人常盤屋が奉献したもの。
02/14/2021 / 最終更新日時 : 04/19/2021 桃太郎 仏閣ー寺院ー 牛王山 八徳寺 牛王山 八徳寺は、中山茶臼山古墳の東側の谷間にあり、中山茶臼山古墳の後円部を拝む位置にある。この場所には、山岳仏教が盛んであった平安時代末期に「高麗寺(こうらいじ)」の金堂があったと考えられている。
02/14/2021 / 最終更新日時 : 04/20/2021 桃太郎 史跡 石舟古墳群 石舟古墳群は、石舟古墳のある所から300mほど北側に登ったところにある4基の横穴式石室古墳。7世紀初め頃に造られたと推測されるもので、吉備尾中山を守る会のメンバーが平成16年春の清掃作業時に発見した。
02/13/2021 / 最終更新日時 : 04/20/2021 桃太郎 史跡 石舟古墳 中山茶臼山古墳の北東部、吉備の中山の中腹にあり、岡山に伝わる桃太郎伝説で、桃太郎ー吉備津彦命ーに退治された鬼(温羅)の墓ともいわれている古墳。古墳時代末期(7世紀初め)の横穴式石室中には播磨国の竜山石を繰り抜いた石棺があり、絶えず清水がたたえられ、この水は潮の干満によってその水量が変わると伝えられている。
11/10/2020 / 最終更新日時 : 11/11/2020 桃太郎 史跡 まだかな橋跡 江戸時代中期以降になると、下津井港は北前船の寄港地として賑わい、陽も沈み町の行燈に赤い燈火がともると、中波止の橋のたもとから船頭や船乗りたちに「まだ(遊郭にあがらん)かな」と声をかける婆がいた。いつともなく橋は「まだかな橋」と呼ばれるようになった。
11/10/2020 / 最終更新日時 : 11/10/2020 桃太郎 史跡 倉敷市指定史跡 下津井共同井戸群 昭和45年3月20日指定 下津井共同井戸群ー漁港として、また北前船や金毘羅往来で栄えた港町下津井の古い町並みを歩いていると山すそに沿いに古い共同井戸が点在しているのに気付く。これらの共同井戸は、下津井の住民や寄港する船の貴重な飲料水として、また、酒造りなどにも供給されていた。
10/16/2020 / 最終更新日時 : 10/17/2020 桃太郎 仏閣ー寺院ー 本蓮寺 境内 国指定史跡 朝鮮通信使遺跡、牛窓本蓮寺境内ー江戸時代に日本国と朝鮮国との善隣友好の使者として12回来朝した朝鮮使節団の中心的な役割を担う三使の宿館として四回使用された。しおまち唐琴通りにある朝鮮通信使ゆかりの井戸と一括で指定されている。
09/19/2020 / 最終更新日時 : 10/09/2020 桃太郎 仏閣ー寺院ー 一の丸ー最上稲荷教総本山 妙教寺ー Sponsored Link 備中高松最上稲荷の境内、東部にある一の丸は、備中高松城水攻めの戦いで羽柴秀吉が最初に陣を構えた地。 天正10年(1582年)4月、毛利軍の東の守り「備中七城」を攻めるため備中高松稲荷のある龍 […]
07/25/2020 / 最終更新日時 : 07/26/2020 桃太郎 史跡 造山古墳 陪塚5号墳ー千足古墳ー 造山古墳 陪塚5号墳ー千足古墳ーは、全長75m、3段築成の前方後円墳、吉備地方では最古型式の横穴式石室が築かれ、石室内には直弧文の刻まれた石障(せきしょう)がある。 鏡・碧王製勾玉(まがたま)・鉄鏃(てつぞく)・埴輪などが出土している。
07/25/2020 / 最終更新日時 : 07/26/2020 桃太郎 史跡 造山古墳 陪塚4号墳 造山古墳 陪塚4号墳は、直径約35mの円墳、あるいは前方後円墳。墳丘部から円筒埴輪・形象埴輪(家・短等)が出土している。
07/24/2020 / 最終更新日時 : 07/26/2020 桃太郎 史跡 造山古墳 陪塚2号墳 造山古墳 陪塚2号墳は、一辺約40mの方墳。周濠が存在し、外堤上に埴輪列を伴う。平成9年11月~平成10年1月の造山古墳陪塚遊歩道整備に伴った調査によって、この位置に2号墳の最も外側に並べられたとみられる約110個の埴輪列を確認することができた。
07/24/2020 / 最終更新日時 : 07/26/2020 桃太郎 史跡 造山古墳 陪塚1号墳ー榊山古墳ー 造山古墳 陪塚1号墳ー榊山古墳ーは、直径40mの円墳ないし造り出しを持つ円墳で、神獣鏡・銅鈴(どうれい)・馬形帯鈎(うまがたたいこう)ーバンドの留め金ーが出土したと伝えている。また伽耶(かや)系陶質土器も出土している。
07/19/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 三重塔心礎ー吉備津神社ー 吉備津神社 三重塔心礎ー室町中期の文安4(1447)年建立の三重塔の心礎。当社の古図や旧記によるとこの塔は一層が三間四方という堂々とした大塔であった。しかし次第に腐朽も甚だしくなったので享保17(1732)年社家たちに依って取り壊された。今日わずかにこの心礎に依って在りし日の大塔を想像するほかはない。(現地案内板)
07/17/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 矢置岩ー吉備津神社ー 矢置岩は、吉備津彦命(桃太郎)が温羅(鬼)と戦った時に、命が空中で奪取した矢を置いたのが矢置岩だと伝わっている。毎年正月三日には矢置岩の上に供え置いた矢を四人の射手が四方に向かって放ち一年の泰平を祈願する矢立の神事が行われる。
07/14/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 猿掛城跡 猿掛城築城のはじまりは東国の武将・庄太郎家長がこの地に地頭として赴任した際に当初、幸山城へ入ったが、防禦に不便として、元久2年(1205年)ごろ猿掛山へ新城を築いて移ったことによる。この城は天正10年(1582年)の高松城攻めの際に毛利輝元の本陣となったことでも有名。
07/12/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 長良山城跡 長良山城跡は、室町時代初めここ服部郷を治めていた、世瀬川左衛門入道祐隣が、建武年間(1334~1338)に築いた城と伝えられている。高松城水攻めのあった頃の城主は、世瀬川祐隣の子孫で姓を禰屋(ねや)と改めた禰屋親光で、毛利方として参戦している。
07/10/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 毛利軍配置状況ー備中高松城水攻めー 羽柴秀吉軍の備中高松城水攻めの際、毛利・羽柴両軍は足守川を挟んで向き合った。毛利軍の配置は、境目(備中)七城を含めて、備中宮路山城跡、備中高松城跡、吉川元春陣跡、天神山陣跡、日差山陣跡、庭瀬城跡、松島城跡などである。
07/10/2020 / 最終更新日時 : 09/19/2020 桃太郎 史跡 羽柴軍配置状況ー備中高松城水攻めー 羽柴秀吉軍の備中高松城水攻めの際、毛利・羽柴両軍は足守川を挟んで向き合った。羽柴秀吉軍の配置は、鍛冶山城、冠山城、加藤清正陣、津田与左衛門陣、宇喜多忠家陣、羽柴秀勝陣、仙石権兵衛陣、羽柴秀吉本陣、堀尾茂助陣、羽柴秀長陣、花房助兵衛陣、加茂城、日幡城などである。
07/09/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 境目七城(備中七城)ー備中高松城水攻めー 「境目七城」は別名「備中七城」とも呼ばれ、中国地方の雄毛利氏が織田軍との戦いに備え整備した防衛ラインで、南から松島城・庭瀬城・日幡城・加茂城・高松城・冠山城・宮路山城の七つの城を併せて名付けられた。
07/08/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 史跡 舟橋ー備中高松城水攻めー 高松城は平城で三方を堀で囲まれており、南手口には具足の武士がようやくすれちがう程の細い道があった。開戦直前に八反堀を掘り外壕とした。そこへ舟を並べて舟橋(長さ約64m)となし、城内より進攻の際はこれを利用し又、退く時は撤去出来る仕組。
07/08/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 仙石権兵衛陣跡ー備中高松城水攻めー 羽柴秀吉の備中高松城水攻めにおいて、後に信濃小諸藩の藩主となる仙石権兵衛秀久陣跡は、羽柴秀吉本陣の石井山の麓近く、堀尾茂助の陣の北側に構えている。上の写真では、正面右中央に見える団地付近がその陣跡ではないかと言われている。
07/07/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 花房助兵衛陣跡ー備中高松城水攻めー 備中高松城水攻めで秀吉軍として活躍した花房助兵衛の陣跡(城跡)を探したが、案内図に詳細な表示が無かった為容易に見つけることが出来なかった。ここは、丁度歩いてこられた近くにお住まいの方にお聞きして探し当てた所。
07/07/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 冠山城跡ー備中高松城水攻めー 冠山城は羽柴秀吉の備中高松城水攻め時、毛利軍の「境目七城」の一つであった。時の城主は、林三郎左衛門重真、妻は清水宗治の娘。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、この冠山城攻めが官兵衛の長男「黒田長政」の初陣であったと放送された。
07/06/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 備中宮路山城跡ー備中高松城水攻めー 備中宮路山城は備中高松城水攻めの際毛利軍の「境目七城」の内の一つで、最も北に位置。黒田官兵衛らが降伏を呼びかけるも小早川隆景の家臣で城将として来ていた乃美元信は応じなかった。隣冠城の陥落後宇喜多家家臣の信原氏が開城を勧めついに開城した。
07/06/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 備中鍛冶山城跡ー備中高松城水攻めー 備中鍛冶山城は高松城水攻めの際、毛利氏の最前線「境目七城」の一つ宮路山城とは足守川を挟んで対岸にある城で、宇喜多氏側の延原(信原)氏が城主であったといわれている。当時宇喜多氏は織田方に寝返っており織田軍の最前線の城であったことになる。
07/05/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 日幡城跡ー高松城水攻めー 日幡城は、羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際、中国地方の雄毛利氏が織田軍との戦いに備え整備した防衛ライン「備中七城」(庭瀬城・松島城・日幡城・加茂城・高松城・冠山城・宮路山城)の一つ。
07/04/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 羽柴秀勝陣跡ー岡之鼻ー高松城水攻めー 岡之鼻という小さな丘の上に立てた羽柴秀勝の陣。秀勝は織田信長の四男で羽柴秀吉の養子となっていた。この高松城水攻めは、羽柴秀勝にとっての初陣。天正10(1582)年10月15日には、大徳寺において喪主となって実父信長の葬儀を行っている。
07/04/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 加茂城二の丸跡ー備中高松城水攻めー 加茂城は天正10(1582)年の羽柴秀吉の備中攻略ー備中高松城水攻めーに際し毛利方が備中南東部の国境沿いに備えた「境目七城」のひとつで、桂広繁・上山元忠・生石治家が立て籠りましたが、秀吉軍の攻撃にあって城中で内紛が起き、ついに落城したと伝えられます。
07/03/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 天神山陣跡ー備中高松城水攻めー 天神山陣跡は、備中高松城水攻めにおいて、毛利軍小早川勢の小田孫兵衛、細川兵部、杉原播磨守らが陣を張ったとされる所。備中高松城へは、花房助兵衛の陣、吉川元春の陣に次いで近い所に位置する。
07/02/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 松島城跡ー備中高松城水攻めー 松島城は備中高松城水攻め時における毛利軍「境目七城」の一つであったが高松城からは遠く水攻めの時は、秀吉軍に攻撃される事無く織田方と毛利方の和睦となった。現在、川崎医療短期大学の敷地となっているあたりが松島城跡とされている。
06/30/2020 / 最終更新日時 : 06/30/2020 桃太郎 史跡 両児神社(ふたごじんじゃ)ー松島ー ここ両児(ふたご)神社は、約1,800年前、神功皇后が三韓征伐の帰り、戦勝と、筑前国譽田の宮にて誕生した二歳の皇子の安泰を祈願された二子の宮ー当時は高鳥居山(ここから数キロ北)に鎮座ーを約1,200年前称徳天皇の時代に遷座した神社。
06/29/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 羽柴秀長陣跡ー鼓山ー備中高松城水攻めー 羽柴秀吉の弟秀長が陣を張った所ー高松城水攻関連史跡・皷山陣所跡・つづみ山城跡(海抜118m)ー天正10(1582)年4月 織田信長の命により備中へ進攻した秀吉の左翼をかためる弟・羽柴秀長が山陽道からの毛利軍に対して布陣した所である。
06/25/2020 / 最終更新日時 : 06/29/2020 桃太郎 史跡 藤田伝八郎の墓ー本能寺の変の密書を持った密使ー 6月3日未明 本能寺の変を毛利方へ伝えんとした明智の臣・藤田伝八郎が秀吉の弟羽柴秀長の陣付近で捕えられた。この使者から情報が漏れることを恐れた秀吉軍は伝八郎を殺害してしまった。
06/24/2020 / 最終更新日時 : 06/25/2020 桃太郎 史跡 高松城水攻築堤趾ーJR桃太郎線足守駅南ー この高松城水攻築堤趾は現在良く知られている蛙が鼻にある築堤趾ではなく、JR桃太郎線足守駅前にある築堤趾で、足守駅の東にある同線踏切の南50m程の堤防上から見ることが出来る。
06/21/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 津田与左衛門陣跡ー小山ー備中高松城水攻めー 津田与左衛門陣跡は加藤清正陣と宇喜多忠家陣の間にある。今は陣の南端部をかすめてJR吉備線が走っている。
06/21/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 副堤の北端ー備中高松城水攻めー 備中高松城水攻め時に足守川堰き止めの為に築いた副堤の北端ー天正10(1582)年5月、羽柴(豊臣)秀吉は、高松城水攻めに際し、この付近からJR吉備線足守駅南まで全長約400mの副堤を築いたと伝えられ、この地はその北端にあたる。
06/20/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 水取り入れ口遺跡ー備中高松城水攻めー 備中高松城水攻め時の水攻め用水取り入れ口遺跡は、天正10(1582)年5月、羽柴(豊臣)秀吉が高松城水攻めの際、足守川のこの付近を堰止め、蛙ヶ鼻までの約3㎞の堤防を築き水を引き入れた場所と伝えられる。
06/20/2020 / 最終更新日時 : 06/20/2020 桃太郎 仏閣ー寺院ー 蓬莱山 報恩禅寺 蓬莱山 報恩禅寺は、かって加藤清正陣跡の山の上にあったが、その後この位置に移転したとされている。また、参道左側には文英の銘が刻まれた文英石仏と呼ばれる吉備地域固有の石仏が祀られている。
06/19/2020 / 最終更新日時 : 06/24/2020 桃太郎 史跡 生石神社 生石神社ー祭神 主神ー応神天皇 神功皇后 玉依媛命 今から1200~1300年も前からこの地区の氏神様であった。奈良時代の神名帳にも残されている。社殿は南北朝末期頃建てられた。
06/19/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 加藤清正陣跡ー報恩寺山ー備中高松城水攻めー 備中高松城水攻め時、生石神社のある報恩寺山に加藤清正が陣を構えた。西脇には足守川が流れている。水攻めにあたり川向こうに400m程の副堤を築き、陣前付近を水攻めの水取り口とし足守川を閉鎖、備中高松城を孤立させた。
06/18/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 吉川元春陣跡ー庚申山ー 戦国時代この庚申山には、積善寺という多くの堂塔僧房をもち、楼門を構えた大寺があったが天正10(1582)年高松城水攻の時、毛利の勇将吉川元春がここを陣所としたため、その兵火によってことごとく焼失したと伝えられている。
06/14/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 仏閣ー寺院ー 小早川隆景陣所跡ー日差山ー 日差山は羽柴秀吉による備中高松城水攻め時、尾根続きにある鷹ノ巣城跡と共に小早川隆景が陣所を張った所として知られている。日差山山頂下の日差山寺(祭神ー毘沙門天)近くには駐車場があり、ここまでは車で登ることができる。
06/11/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 宇喜多忠家陣跡ー八幡山ー 備中高松城水攻めの際、織田方に付いた宇喜多秀家の叔父、宇喜多忠家(直家の弟)が陣を張った八幡山。現在は、八幡神社が鎮座している。備中高松城跡や羽柴秀吉陣跡方面の眺望に優れている。
06/11/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 ごうやぶ遺跡 備中高松城 三の丸総門のわきにあり、1582年6月4日死出の宗治等の舟を追うて宗治の僕、七郎二郎と月清の馬の口取興十郎とが「一足先に三途の川でお待ち申します」と互いに差し違えた所。
06/11/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 清水宗治の胴塚 天正10年(1582)6月4日、秀吉軍の水攻めに会い自決した高松城主、清水宗治公の首級なき胴体遺体は舟上のまま本丸に帰ってきた。迎える家臣、身内の者共、抑えきれぬ涙に感極まって一同の嗚咽がおこった。やがて回向の声に包まれ、池の下丸、この地に手厚く葬られた。
04/21/2020 / 最終更新日時 : 04/23/2020 桃太郎 仏閣ー寺院ー 高松山 妙玄寺(こうしょうざん みょうげんじ) 高松山 妙玄寺は、慶長5年(1600年)、領主 花房職之公により花房家の菩提寺として建立された寺で最上稲荷の高松城支院である。境内には宗治公自刃の地として建立された元高松城主清水宗治公の供養塔がある。
04/21/2020 / 最終更新日時 : 04/23/2020 桃太郎 史跡 清水宗治自刃の地 天正10年(1582年)年6月4日、秀吉の用意した小舟に乗り込み、舞を舞った後に「浮世をば 今こそ渡れ武士の名を 高松の苔に残して」と辞世の句を詠み切腹をした清水宗治。その自刃の地は高松城の東、高松山 妙玄寺境内にある。
04/19/2020 / 最終更新日時 : 07/09/2020 桃太郎 史跡 備中高松城跡 備中高松城は、備前国に通じる平野の中心、松山往来沿いの要衝の地にあり、天正10(1582)年、中国の役の主戦場となった城跡で、羽柴秀吉により水攻めをされ、城主清水宗治公が家来達の助命を願って切腹した城として有名である。
04/18/2020 / 最終更新日時 : 04/23/2020 桃太郎 史跡 清水宗治公首塚 高松城水攻めにより自刃した清水宗治公の首級は、秀吉の本陣にて首実検、本陣脇に葬られ五輪塔が建立されたといわれている。その後、地元の人々により公の顕彰へと進展、明治42年にここ備中高松城本丸跡へ首塚の移築がなされた。
04/17/2020 / 最終更新日時 : 04/23/2020 桃太郎 博物館・資料館 高松城址公園資料館 高松城址公園資料館は、備中高松城址内にある歴史資料館で、織田信長の命により羽柴秀吉が備中高松城水攻めをした際の資料を中心に展示すると共に、ボランティア活動の拠点にもなっている。
04/17/2020 / 最終更新日時 : 04/23/2020 桃太郎 史跡 宗治蓮 宗治蓮は、岡山市が昭和57年に備中高松城跡を歴史公園として造成するにあたり、本丸と二の丸との間にある蓮池と呼ばれている所の沼を復元した際、その沼に自然に蓮が生えてきた蓮に名付けられた名前。
04/14/2020 / 最終更新日時 : 06/11/2020 桃太郎 史跡 蛙が鼻築堤跡 蛙が鼻築堤跡は、羽柴秀吉が備中高松城を水攻めするにあたり、城地の南東約700mの山根ー蛙ケ鼻(かわずがはな)-から西北西約1,500mの足守川上流まで築いた約3㎞の堤防で、わずか12日間で築いたと伝えられている。
04/14/2020 / 最終更新日時 : 04/23/2020 桃太郎 史跡 水攻め築堤跡(ちくていあと)の調査 平成10年(1998年)の4月から5月にかけて、水攻め築堤の遺構状況を確認するため、発掘調査が行われました。その結果、築堤の大半はすでに削り取られていたものの、現在の水田の下約1mのところで、基底部(きていぶ)が確認された。
04/12/2020 / 最終更新日時 : 04/23/2020 桃太郎 史跡 高松城水攻め史跡公園 高松城水攻め史跡公園は、天正10年(1582年)中国の役で、羽柴(後に豊臣)秀吉が備中高松城の水攻めの際築いたと伝わる築堤史跡、蛙が鼻築堤跡(昭和4年12月17日国指定史跡)に隣接して整備した公園(面積約4,000㎡)。
04/02/2020 / 最終更新日時 : 06/11/2020 桃太郎 史跡 御崎神社 御崎神社は、旧立田村の村社で、祭神は「吉備武彦(きびたけひこ)の命」、創建は弘治年間(1555~1558)。天正10年(1582年)高松の役のとき、この御崎神社は、秀吉配下の掘尾茂助の陣となった。
03/28/2020 / 最終更新日時 : 06/11/2020 桃太郎 史跡 太閤岩ー備中高松城水攻めー この「太閤岩」は、天正10年(1582年)に羽柴(豊臣)秀吉が織田信長の命により、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を攻めた時、作戦上の目標物として活用したのではないかと言われている。
03/28/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 羽柴秀吉本陣跡ー備中高松城水攻めー 羽柴秀吉が高松城水攻めをするにあたり本陣を構えた場所で当時の石井山持寶院境内跡である。天正10(1582)年6月4日、講和の条件として自刃した清水宗治公の首級は、この本陣に於いて、秀吉の首実検の後手厚く葬られ五輪塔が建立されたといわれている。
03/26/2020 / 最終更新日時 : 03/26/2020 桃太郎 世界かんがい施設遺産 百間川一の荒手改築 現地説明会 国土交通省岡山河川事務所主催、百間川一の荒手改築工事の現地説明会。2017年12月24日開催。「一の荒手」は、旭川の増水時その流れを百間川放水路に逃し岡山城下を洪水から守るために江戸時代に設けられた治水施設。
03/25/2020 / 最終更新日時 : 03/26/2020 桃太郎 世界かんがい施設遺産 百間川一の荒手 亀の甲(巻石) 一の荒手は越流部と、その両端にある亀の甲の形をした「巻石」と呼ばれる曲面で構成される石積み石造構造物から出来ている。「巻石」を角や直線の無い曲面状の石積みとすることにより水の抵抗を少なくして受け流すことができ背割堤端部の崩壊を防ぐには最適の構造となっている。
03/13/2020 / 最終更新日時 : 03/14/2020 桃太郎 世界かんがい施設遺産 百間川の果たした役割 百間川は岡山城下の防災だけでなく、基幹的な排水施設として新田開発にも大きな役割を果たした。この歴史的功績から、平成27年に日本土木学会選奨土木遺産に、令和元年には世界かんがい施設遺産に登録されている。
03/12/2020 / 最終更新日時 : 03/17/2020 桃太郎 世界かんがい施設遺産 百間川河口水門 百間川河水門は、岡山城下を旭川の洪水から守ると共に新田開発の灌漑用水としても利用する為に造られた放水路(百間川)河口に設けられた水門。ゲート操作により満潮・高潮時には閉鎖して児島湾からの海水の流入を防ぎ、干潮時・洪水時には開放して百間川の流水を円滑に流下させる役割を果たす。
03/12/2020 / 最終更新日時 : 03/14/2020 桃太郎 史跡 金蔵山古墳第6次調査トレンチ10~12 2019年度の金蔵山古墳第6次発掘調査では前方部の分頂部をその主軸にほぼ沿った4ヶ所のトレンチで調査をしている。最も円墳側のトレンチ10では前方部の鞍部に溝状のくぼみがあり後につくられた城郭の堀切遺構が検出されたと記載されている。
03/10/2020 / 最終更新日時 : 03/14/2020 桃太郎 史跡 金蔵山古墳第6次調査出土埴輪 操山丘陵にある金蔵山古墳の第6次調査(2019年度)で前方部下段平坦面で検出された埴輪列。説明資料によると第2段斜面の葺石は基底石近くの構造は失われているが大半は残存しており、また、葺石と埴輪列との間には円礫堆が認められると記載されている。
03/10/2020 / 最終更新日時 : 03/11/2020 桃太郎 史跡 百間川河口水門建設の歴史ー江戸から明治ー 岡山藩士津田永忠は、操山南に広がる浅瀬で新田開発に併せて旭川放水路、百間川を築造、河口には洪水調節や潮止め対策としての水門を整備、その水門は築造後から現水門が出来る昭和43年まで機能してきた。
03/09/2020 / 最終更新日時 : 03/11/2020 桃太郎 史跡 百間川河口水門改修記念碑ー明治時代ー 百間川河口水門の改修記念碑。元禄時代、岡山藩による新田開発時に設けられた水門が老朽化した為、当時、岡山県上道郡の人々の要請により水門の改修工事がなされ、その完成を記念して建立された。明治25年5月完成。
03/09/2020 / 最終更新日時 : 03/11/2020 桃太郎 史跡 百間川河口水門遺構ー江戸時代建設ー この水門遺構は江戸時代に建設され昭和43年まで百間川河口で使用された水門の一部。昭和38年から5年の歳月をかけて水門の改修工事が行われ昭和43年に完成した為その役割を終えここに保存されている。