06/11/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 清水宗治の胴塚 天正10年(1582)6月4日、秀吉軍の水攻めに会い自決した高松城主、清水宗治公の首級なき胴体遺体は舟上のまま本丸に帰ってきた。迎える家臣、身内の者共、抑えきれぬ涙に感極まって一同の嗚咽がおこった。やがて回向の声に包まれ、池の下丸、この地に手厚く葬られた。
03/12/2020 / 最終更新日時 : 03/17/2020 桃太郎 世界かんがい施設遺産 百間川河口水門 百間川河水門は、岡山城下を旭川の洪水から守ると共に新田開発の灌漑用水としても利用する為に造られた放水路(百間川)河口に設けられた水門。ゲート操作により満潮・高潮時には閉鎖して児島湾からの海水の流入を防ぎ、干潮時・洪水時には開放して百間川の流水を円滑に流下させる役割を果たす。
10/10/2017 / 最終更新日時 : 03/16/2018 桃太郎 岡山県ゆかりの人 熊沢蕃山碑 旧岡山藩藩学跡の泮池脇に建てられた陽明学者熊沢蕃山の石碑。熊沢蕃山は、寛永12(1635)年岡山藩主池田光政に仕えた後、中江藤樹の下で陽明学を学ぶ。正保2(1645)年、再度池田光政に招かれ、三千石の家老として藩政に参与、治山治水、飢饉対策、教育宗教で岡山藩に功績を残す。
10/09/2017 / 最終更新日時 : 03/16/2018 桃太郎 史跡 岡山藩郡代津田永忠の事蹟 岡山藩主池田光政、綱政の2代、50年にわたって仕え、和意谷に池田家墓所の造営、旭川の洪水から岡山城下を守るため、百間川放水路の開削、倉田新田、沖新田など新田の干拓、倉安川の開削、池田家の菩提寺である曹源寺の建立、後楽園の造営など現在の岡山の基礎となる各種事業を手がけ完成させる。
10/09/2017 / 最終更新日時 : 03/17/2020 桃太郎 岡山県ゆかりの人 沖新田 沖新田の干拓は、倉田新田ー延宝7(1679)年完成ー、幸島新田ー貞享元(1684)年完成ーに続いて元禄4(1691)年9月に池田綱政が津田永忠に命じて開始され、翌年の7月には完成するといった非常なスピードで進められた。同時に百間川を延長して新田の中央を通し元禄6(1693)年に完成させている。
10/08/2017 / 最終更新日時 : 03/16/2018 桃太郎 岡山県ゆかりの人 幸島新田 幸島新田は、岡山藩主池田光政が計画、その子綱政が津田永忠に命じて、吉井川左岸にあった神崎新堀を水門湾まで延長し、その東西に開発された新田である。津田永忠は、延宝7(1679)年に完成した倉田新田に次いで貞享元(1684) […]
05/08/2017 / 最終更新日時 : 03/16/2018 桃太郎 岡山県ゆかりの人 津田永忠像 岡山藩主 池田光政、綱政の2代に仕え、和意谷に池田家墓所の造営、百間川放水路の開削、倉田新田、沖新田などの干拓、倉安川の開削、池田家の菩提寺、曹源寺の建立、後楽園の造営など岡山藩の各種事業を手がけ、完成させる。岡山藩郡代。
04/11/2017 / 最終更新日時 : 03/16/2018 桃太郎 岡山県ゆかりの人 小川郷太郎博士像 明治9年に当時の里庄村新庄に生れ、東京帝大法科大学政治学科を卒業、大蔵省に入省。明治33年に京都帝大に迎えられ助教授、教授を経て経済学部長にまでなる。その後大正6年衆議院議員に当選、商工大臣、鉄道大臣、大政翼賛会総務、ビルマの軍政最高顧問などを歴任。昭和20年4月歿。
04/11/2017 / 最終更新日時 : 03/16/2018 桃太郎 岡山県ゆかりの人 仁科芳雄博士像 里庄町浜中に生れ、東大工学部電気工学科を卒業、クライン仁科の公式の導出、サイクロトロンの建設、宇宙線の研究など、わが国原子物理学発展の基礎を築築いた。太平洋戦争後理化学研究所所長、日本学術会議副会長として科学技術の復興に盡した。1951年歿、61歳。
12/09/2016 / 最終更新日時 : 03/16/2018 桃太郎 岡山県ゆかりの人 藤原啓ー閑谷学校ゆかりの人ー 現備前市生まれる。閑谷黌に進学するが、4年終了時に中退。大正8年上京し文学誌社「博文館」に就職。38歳の時帰郷。国文学者正宗敦夫の勧めと、三村梅景の手ほどきで備前焼を始める。その後金重陶陽の指導も受け、同29年には岡山県重要無形文化財保持者に、昭和45年人間国宝に認定される。
12/08/2016 / 最終更新日時 : 03/16/2018 桃太郎 岡山県ゆかりの人 三木露風ー閑谷学校ゆかりの人ー 現竜野市生まれ。7歳の時母が去り祖母に育てられる。竜野中学から閑谷黌の3年生に転校。有本芳水を通じ作詞活動や同人たちと交遊。17歳の時、処女詩歌集「夏姫」を自費出版。芳水を追って上京、「車前草社」を創立。同40年早稲田大学入学、詩集「廃園」を出版、文壇での詩人としての地位を確立する。
12/08/2016 / 最終更新日時 : 03/16/2018 桃太郎 岡山県ゆかりの人 大原孫三郎ー閑谷学校ゆかりの人ー 大原家の三男として現倉敷市に生まれ、明治27年閑谷黌に入学、後東京専門学校に進むも学業半ばにして帰郷、倉敷紡績社長など企業経営のかたわら、倉敷の文化・福祉の発展を願い、児島虎二郎にヨーロッパ近代絵画の収集に当たらせ、それらを展示するための大原美術館を開館する。
12/08/2016 / 最終更新日時 : 03/16/2018 桃太郎 岡山県ゆかりの人 正宗白鳥ー閑谷学校ゆかりの人ー 現備前市穂浪に生れる。本名忠夫。明治25年閑谷黌に入学、一年半ほど在学し、漢学と英語を学び、「国民の友」などによりキリスト教を知る。同29年上京し東京専門学校(現早稲田大学)に入学、同34(1901)年卒業し読売新聞社に入り、美術・文芸・演劇などの記事を担当。
12/08/2016 / 最終更新日時 : 03/16/2018 桃太郎 岡山県ゆかりの人 西 毅一ー閑谷学校ゆかりの人ー 藩士の長男として天保14(1843)年、岡山に生れる。大阪で学んだのち帰郷、西後村の学僕となる。後村没後はその養嗣子となって西姓を名乗る。岡山県参事、清国での文学研究、国会開設運動などに携わった後、閑谷学校の再興を図り、明治17(1884)年に再興される閑谷学の初代学長となる。
12/08/2016 / 最終更新日時 : 03/16/2018 桃太郎 岡山県ゆかりの人 山田方谷ー閑谷学校ゆかりの人ー 文化2(1805)年現高梁市中井町西方で生れる。5歳から儒学を学び、松山藩士、藩校有終館会頭を経て京都や江戸へ遊学、帰藩後は校有終館学頭となる。藩主の命により藩政改革をした後は老中首座として幕府の政治を担当。明治6年、閑谷学校の再興を請われ、その再興に尽力する。
12/08/2016 / 最終更新日時 : 03/16/2018 桃太郎 岡山県ゆかりの人 武元君立ー閑谷学校ゆかりの人 明和7(1770)年現吉永町北方の名主の次男に生れる。閑谷学校で有吉以顕から臓器の指導を受け、江戸に出て大学頭林述斎に師事ののち帰郷、北方村の名主となる。文化10(1813)年閑谷学校教授に任用され、閑谷に移住し、教育と学校経営に専念。「閑谷学図」を作成したり、茶室黄葉亭を建てる。
12/07/2016 / 最終更新日時 : 03/16/2018 桃太郎 岡山県ゆかりの人 熊沢 蕃山ー閑谷学校ゆかりの人ー 元和5(1619)年京都に生まれ、母方の熊沢守久の養子となる。中江藤樹に陽明学を学ぶ時期を挟んで、寛永11(1634)年以降二度、池田光政に仕え、経世済民思想の実現を目指すも家中の反感や幕府からの中傷により蕃山に隠退。その後、京都で名声を得るも幕府の忌避を受け茨城古河に軟禁、同地で没する。
12/07/2016 / 最終更新日時 : 03/16/2018 桃太郎 岡山県ゆかりの人 津田永忠ー閑谷学校ゆかりの人ー 寛永17(1640)年岡山藩士の三男として岡山に生れ、14歳の時、御側児小性として光政に仕えた後、光政、綱政の二代に渡って岡山藩の重臣として、干拓事業をはじめとする様々の土木事業を行なうと共に閑谷学校の創立、運営に力を注ぐ。
12/07/2016 / 最終更新日時 : 03/16/2018 桃太郎 岡山県ゆかりの人 池田光政ー閑谷学校ゆかりの人ー 岡山藩三代藩主、池田光政(1609~1682)、姫路藩主池田利隆の嫡子。姫路藩主・鳥取藩主を経て岡山藩主となり、岡山藩の基礎を固めると共に、重臣 津田永忠に命じて閑谷学校を建設する。