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気清麻呂公像ー和気神社ー

気清麻呂公像ー和気神社ー

ーその人と業績ー
わが国の歴史の中で、国政に参与し大きな働きをした偉大な人物として、和気清麻呂公の名は、全国に広く知られています。
清麻呂公は、天平5年(733)備前の国藤野郡(和気町)に生まれ、長じて国政に参与し、政治の浄化と革新に大きな役割をはたしました。

また、長岡遷都・平安京の建設・河川改修・港湾工事を行い、学校を建てて人材の育成に努めるなど、多くの業績を残しました。
姉上である広虫姫についても、その深い博愛精神は広く知られるところであり、現在の福祉行政・人権尊重の祖といっても過言ではありません。

そして子孫一族も、学問の振興や新しい仏教の導入に力を入れ、医学を拓き、郷土においてはよく民の意見を聞き、産業の振興に勤める等、和気氏は、平安時代の先覚者であるとともに、郷土の誇りでもあります。

「我独慙転地」(われひとり天地にはず)

京都護王神社の社宝である清麻呂公のご直筆書は常に自己を反省しながら至誠と広い愛をもって好事を為した清麻呂公の精神と、崇高な姿を現在に伝えております。
             昭和59年3月吉日 和気神社(現地案内板)

和気清麻呂公と道鏡事件

史上有名な道鏡事件は、神護景雲3年(769)に起こった。時に清麻呂公は、37歳・近衛将監であった。

弓削道鏡(ゆげのどうきょう)
河内国弓削郷(大阪府八尾市)出身の僧侶。孝謙天皇(女帝=重祚して称徳天皇)に寵愛され、太政大臣禅師、ついで法王となり、権勢をふるった。

宇佐八幡宮神託事件
九州大宰府の主神である習宜阿曽麻呂(すげのあそまろ)が、宇佐八幡の神託と称して、「道鏡をして皇位に即かしめば天下泰平ならん」と朝廷に上奏した。

宇佐の神教(真の神託)
女帝は事の重大さに驚かれ、神託の真偽を確かめるため、清麻呂公を宇佐八幡へ遣わされた。社頭に額づく清麻呂公に、「道鏡を掃い除くべし」という真の神託はくだされた。

復奏配流
清麻呂公は帰京して、「神教」のとおりに復奏した。
すると法王道鏡は烈火のごとく怒り、清麻呂を大隅国(鹿児島県牧園町)へ、姉広虫を備後国(広島県三原市)へ流刑にした。

名誉回復
神護景雲四年=宝亀元年(770)称徳天皇崩御、光仁天皇が即位されると、道鏡は下野国(栃木県)へ左遷された。
一方清麻呂公・広虫姫は、配所より召還されて元の官位に復した。

皇統護持
清麻呂公は、権力に屈することなく、信念を持って行動し皇統を護持した。
その清廉剛直にして誠実な人柄は、多くの人々に敬愛された。 (現地案内板)

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和気清麻呂公略伝
生い立ち
天平5(733)年、備前国藤野郡(現和気町)に生まれる。奈良の都に出て武官として出仕、近衛将監となる。

道鏡事件
神護景雲3(769)年、僧道鏡が皇位を望む時、宇佐八幡宮(現宇佐神宮)に勅使として詣で、神託を受けて復奏、その野望を阻み国家の危機を救った。
このことにより改名の上、大隅国(現鹿児島県)に流されたが2年後、許されて都に帰り本姓本位に復した。

功績
その後、桓武天皇の信頼を得て、摂津大夫・民部大輔・民部卿として長岡京の造営、摂津・河内両国の治水工事に当たった。延暦13(794)年清麻呂公の建言により平安京に遷都、造宮大夫として新京の建設に尽力して同18(799)年に没した。年67歳。

郷土愛
清麻呂公は、備前備前美作両国の国造を兼ね、延暦7年、和気郡の河西に新しく磐梨郡(現赤磐市)を独立させ、農民の便宜をはかった。
また、長男広世は父の遺志を継ぎ、私墾田百町を備前八郡の賑給田として、貧しい農民に与えた。

人柄
清麻呂公は「人と為り高直にして、匪躬の節あり」(日本後紀)、また「故郷を顧念して彼の窮民を憐れみ、忘るることあたはず」(同)、と称えられている。

御神徳
このようなお人柄は、後世の人々の崇敬も厚く厄祓い・心身健康・学問成就(入試合格)・建築、土木、水運(産業繁栄)の神様として広く信仰されている。(現地案内板)