詩人永瀬清子生家

永瀬清子生家

永瀬清子生家

明治29年2月17日、詩人永瀬清子が生まれ2歳の時電気技師の父永瀬連太郎が金沢に赴任するまで育ち、第2次世界大戦後、この地へ帰住、農業をしながら、藤原審爾・山本道太郎らと同人誌「文学祭」を発刊するなど、詩作と著述を続けたり、世界連邦岡山県協議会事務局に勤務、世界平和のために尽した所。

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名称  永瀬清子生家
所在地  〒709-0705 赤磐市松木691
TEL  0869-55-6175 赤磐市観光協会
概要 永瀬清子(1906~1995)

明治39年2月17日、永瀬清子は赤磐郡豊田村大字松木(現熊山町)に永瀬連太郎と八重野の長女
として出生、戸籍名は清という。

生家は素封家として知られ、母方の祖父は明治初期に県会議員をつとめた。

清子は2歳から16歳まで電気技師の父連太郎の赴任先金沢で育った。

父の転勤で名古屋へ移り、「上田敏詩集」を読んでから詩の世界に開眼。

愛知県立第一高女高等部在学中から佐藤惣之助について「詩之家」同人となった。

同校を卒業した昭和二年に結婚、大阪に新居を構えた頃、詩壇はシュールレアリズムや
モダニズムの影響下にあり、「詩と詩論」が席巻していた。

清子は当時の思潮に対して冷静な距離を保ったため、容赦のない批判を浴びたが、昭和5年
「グレンデルの母親」を世に問い、早くも独自の才能を顕現した。

翌年夫の転勤で上京、友人の勧めで北川冬彦主宰の「時間」同人となり、左翼文学攻勢の中、
穏やかな抒情詩に決別すべく第一次「時間」を解散した北川に同調した。

「時間」が名を変えた「磁場」・「麺麹」は清子の命名による。

昭和15年清子が女流詩人として名声を獲得した詩集「諸国の天女」の序文は、高村光太郎
によるもので、高村とは清子が生涯敬慕した宮沢賢治の追悼会での出会いが縁となった。

また、この詩集によって仏文学翻訳の第一人者山内義雄や宮本百合子に認められることとなり、
既に、昭和初期清子は深尾須磨子や長谷川時雨など、当時随一の女流文学者達の仲間入りを
果たした。

戦後は生地熊山へ移り農業に初めて従事しながら、藤原審爾・山本道太郎らと昭和21年
同人誌「文学祭」を発刊。

翌21年同人誌「文学祭」を発刊。

翌22年吉塚勤治らの「詩作」創刊に参加、また「日本未来派」同人となった。

星座の娘」・「糸針抄」・「大いなる樹木」・「美しい国」・「焔について」など次々に
作品を発表しつつ、昭和27年「黄薔薇」を創刊、後進を育成した功績は大きい。

昭和30年印度でのアジア諸国民会議に参加、同38年から52年まで世界連邦岡山県協議会事務局
に勤務、世界平和のために尽す。

この間詩作の泉を涸らすことなく「海から陸へ」・「永瀬清子詩集」他著書多数を刊行。

昭和57年日本現代詩人会から先達詩人として顕彰された。

昭和62年81歳で「あけがたにくる人よ」が地球賞を、翌年同詩集でミセス現代詩女流賞を受賞。

平成7年、89歳で永眠。命日の2月17日を清子を慕う人々は「紅梅忌」とよぶ。

(くまやまふれあいセンター永瀬清子展示室内に展示の略歴より)

交通  JR山陽本線熊山駅より車約10分、

山陽自動車道山陽IC、または和気ICより車約20分

駐車場  ー

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