笠神の文字岩

笠神の文字岩

笠神の文字岩

高梁川の支流である成羽川の上流、笠神の龍頭の瀬にある鎌倉時代の河川交通の遺跡。わが国の水運開発史上最古のもので極めて重要な史跡。徳治2(1307)年の航路が完成した旨の碑文があるが、現在では新成羽川ダムの貯水池の底になっている。

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名称  国指定史跡 笠神の文字岩(かさがみのもじいわ) 昭和16年2月21日指定
所在地  高梁市備中町平川字金平1762番地官有林地先成羽川中
TEL  0866-21-0461 高梁市観光協会
概要  この文字岩は、鎌倉時代の徳治2年(1307年)に成羽川の上流、笠神の龍頭の瀬を中心に、
上下十ヵ所を掘削し船を通した船路開削工事の記念碑で、わが国の水運開発史上最古の
もので極めて重要な史跡です。

備中北部は古代以来、砂鉄の生産を以て知られ、ここから山を北へ越えた神代(こうじろ)、
野部(のべ)(現在の神郷町、哲多町)は建仁2年(1203年)に伊勢内宮の御厨となって
鉄三千挺を内宮に送っていたと言われています。

この鉄は、八鳥(現在の哲西町)に集められ、険しい山道を2日がかりで成羽へ運ばれ、
そこから船に積みかえられて川を下っていました。

陸路は、距離(28KM)が遠いのみならず、急峻な山道でたえず危険にさらされていました。
笠神の瀬を船が通れるようにすれば、八鳥から小谷までは陸路を運び、そこから船で下る
ことができ陸路約20KMが短縮され半日あれば運べることになります。

このことからは神笠の瀬の船路開削は、当時の人達の悲願であったといえましょう。

この船路を開削するため、小谷から惣田間の龍頭の瀬上下十余ヵ所、日本無雙の難所の水運
開発を願った四郎兵衛など地元の人々が発起人となり、尊海が大勧進の役をつとめ諸方に
勧進すること十余カ月、さらに成羽善養寺の本山奈良の西大寺がこれを援助し工事奉行に
実専をあたらせ、石切大工は伊行経であったことが判明しています。

工事の頭領の伊行経は、奈良の東大寺の再建にあたって宋から招かれた伊一族で、いわば
当時最先端をゆく技術者が、この開削工事に当たっていることを物語っています。

この事業は地元の遺志を結集して寺が中心となり行われた当時の社会事業であったものと
いえましょう。

この工事から490年後の、寛政9年(1797年)作州久世天領代官早川八郎左衛門政紀が、
当郷巡察の途中この地を訪れた時に、この銘文を読みその所感を歌に託して傍らの岩に
刻んだのが、早川代官の歌石であります。

文字岩は、昭和43年(1968年)の新成羽川ダム完成に伴い眼下の湖水の中に沈み今では
その姿を現すことはありません。

昭和56年7月に浩宮徳仁親王が、わが国中世の交通史を研究されるため来岡された際、
当地へ立ち寄られ現在地より文字岩を見学されました。

平成4年3月 文部省 備中町教育委員会(現地案内板)

交通  JR伯備線備中高梁駅より車約40分、
または川上バスセンター行バス25分、終点下車、(乗換)、
新見・坂本西湯野行田原下車、

岡山自動車道賀陽ICより車約50分

駐車場  ー

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