撫川城跡
撫川城は、永禄2(1559)年に備中成羽城主三村家親が、備前の宇喜多直家の侵攻に備えて築城したといわれている。城跡は東西77m、南北57mの長方形で、外側に幅15mの濠をめぐらしている。約30アールの城跡の北側と西側には完全な石垣が残り、水をたたえた濠が周囲を取り巻いていて、戦国時代末期の沼城の跡を留めている。
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名称 | 岡山県指定史跡 撫川城跡(なつかわじょうあと)ー芝場城跡ー 昭和32年5月13日指定 |
所在地 | 〒701-0164 岡山市北区撫川423 |
TEL | 086-293-1111 岡山市役所吉備支所 |
築城者 | 三村元親(備中松山城主) |
築城年 | 永禄2(1559)年 |
様式 | 平城 |
天守閣 | 無し |
概要 | 撫川城は泥沼の地に築かれた典型的な「沼城(ぬましろ)」です。
城の平面形状は、東西77メートル、南北57メートルの長方形を示し、幅15メートルの 西半に高さ4メートル強の高石垣ー野面(のづら)積みーと東半には土塁が現存しています。 また北西隅には、櫓台と思われる石垣の張り出しが見られます。 この城は永禄2(1559)年に備中成羽城主三村家親が、備前の宇喜多直家の侵攻に備えて 備中高松の役ー天正10(1580)年ーには毛利方の国境防備の城「境目七城」の一つとなり、 その後は宇喜多の支配下になり廃城となりましたが、江戸時代に戸川氏の領するところと 戸川氏は安風(やすかぜ)(4代目)で断絶しますが、その弟達富(みちとみ)が撫川領分を 撫川城跡と庭瀬城跡とに呼び分けられていますが、もともとは一体の城だったのです。 なお、入口に現存する門は、、撫川地行所総門を明治になって現在地に移築したものと伝え 昭和30(1957)年5月、県の史跡に指定されました。 平成9年3月 岡山市教育委員会(現地案内板) |
交通 | JR山陽本線庭瀬駅より徒歩約15分、
山陽自動車道倉敷ICより車で約30分 |
駐車場 | 無し |
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