岡山城 本丸
岡山城 本丸は、藩主の住まいである御殿があった上の段(本段)、政治の場である表書院があった中の段(表書院)とこれらを取り囲んだ下の段の三段から成り、下の段の南方と西方は堀で、他は旭川により守られている。
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現在の岡山城は、宇喜多直家が石山にあった金光宗高の城を奪還、改修し沼城から移ってきた後、その子秀家の時代になって石山から300mほど東にあった「岡山」と呼ばれる丘を上・中・下の三段に造成、8年の歳月を費やして慶長2年(1597年)に完成したのが始まり。
関ヶ原合戦で敗れた秀家は八丈島へ配流、その後小早川秀秋が、次いで慶長8年(1603年)には池田忠継が城主となり、この頃に中の段を南に拡張している。その後、池田忠雄の代ー元和元年(1615年)ーになって中の段をさらに拡張、表書院や月見櫓をはじめ多くの隅櫓を築造するなどの整備が行われ、ほぼ現在残されている本丸基壇の形が出来上がった。
明治維新後の岡山城本丸の歴史
明治時代初めー天守閣と月見櫓を残して他の建物は取り壊される。
明治29年(1896年)ー岡山県立第一中学校(現 県立岡山朝日高等学校)建設
昭和20年(1945年)ー空襲により天守、中学校校舎が焼失
昭和35年(1960年)岡山城再建期成同盟結成
昭和41年(1966年)天守閣、廊下門、不明門、六十一雁木上門、土塀完成
昭和62年(1987年)本丸、内堀史跡指定
平成8年(1996年)中の段整備開始
平成19年(2007年)中の段整備完成
平成23年(2011年)下の段整備開始(供腰掛展示の案内板を参考)
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