両宮山古墳

両宮山古墳
5世紀中頃に築造された、全長192mの前方後円墳で、造山古墳、作山古墳と並び、県下の三大古墳に数えられ、周濠を持つとしては、県下では唯一のものである。周囲を、廻り山古墳、森山古墳、茶臼山古墳、正免東古墳が取り囲み全体が大規模な墓域となっている。
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名称 | 国指定史跡 両宮山古墳(りょうぐうざんこふん)
昭和2年4月8日指定、追加指定 昭和53年2月8日、追加指定 平成18年1月26日 |
所在地 | 赤穂市穂崎 |
TEL | 0869-55-6175 赤磐市観光協会 |
概要 | 両宮山古墳は、五世紀の中ごろ築造されたもので、岡山県においては造山古墳、 作山古墳と並ぶ大規模な前方後円墳です。 墳丘の全長192m、後円部の径103m、前方部の長さ120m、周囲に幅約40mの 高さ20m以上の墳丘は、周囲の土を掘って築き上げたもので、平地に築造された 前方部は発達した墳形をしており、くびれ部両側に造り出しがが設けられています。 墳丘前方部には戦国時代には城主和田伊織の両宮城(砦)があったと伝えられており、 1927(昭和2)年4月8日、国の史跡に指定され現在に至っています。 周囲を森山古墳、正免東古墳、廻り山古墳、茶臼山古墳が取り囲み、全体が広大な また、さらには小山古墳、朱千駄古墳等を配して、吉備地方屈指の大規模な西高月 平成15年3月 山陽町(現赤磐市)教育委員会(現地案内板) |
稚媛伝説 | 両宮山古墳と稚媛伝説、
今からおよそ1500年前、このあたりは吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ) 両宮山古墳は、その田狭の墓ではないかと言い伝えられています。 田狭には稚媛という美しい妻がいましたが、あまりの美貌ゆえに雄略天皇が自分 任那(みまな)の国司として派遣されていた田狭は、留守に妻を奪われたことを 怒った天皇は田狭の子である弟君(おとぎみ)に父を討つことを命じましたが、 これを知った弟君の妻楠姫は、夫に謀反の心があることを知り、弟君を殺して 妻稚媛を天皇に奪われ、わが子弟君を殺された田狭の嘆きはどのようなもので しかし、田狭のその後は「日本書紀」に記されていません。 それから十数年後、雄略天皇が崩御されると、稚媛は雄略天皇との間に生まれた 皇太子白髪皇子(しらがのみこ)と争いましたが、やがて立てこもっていた大蔵に 「日本書紀」には、滅びゆく豪族の姿と数奇な運命がこのように描かれています。 壮大な両宮山古墳は、今もなお、古代の悲しい物語を語り続けているのです。 赤磐市観光協会(現地案内板) |
交通 | JR岡山駅より宇野バス、ネオポリス行、または湯郷・林野方面行、新道穂崎下下車、 徒歩約5分、山陽自動車道、山陽ICより車で約10分 |
駐車場 | 有り |
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