藩士の長男として天保14(1843)年、岡山に生れる。大阪で学んだのち帰郷、西後村の学僕となる。後村没後はその養嗣子となって西姓を名乗る。岡山県参事、清国での文学研究、国会開設運動などに携わった後、閑谷学校の再興を図り、明治17(1884)年に再興される閑谷黌の初代黌長となる。

Sponsored Link



名称  西毅一(にし きいち)(1843~1904)ー閑谷学校ゆかりの人ー
役職  明治の教育者 閑谷黌黌長
略歴  岡山藩士の長男として天保14(1843)年、岡山城下に生れる。号を薇山(びざん)と称す。

大阪で学んだのち帰郷し、森田節斎の門人、西後村(にしこうそん)の学僕となる。

後村没後は節斎の学僕となり、後村の養嗣(し)子となって西姓を名乗る。

明治8(1875)年岡山県惨事に、同9(1876)年東京上等裁判所判事となるが翌年辞任。

同12(1879)年清国に渡り文学研究に励むが、病気になり帰国。

同年自由民権運動が高揚すると、国会開設運動に邁進。

同14(1881)年閑谷学校の再興を図り、保黌会(ほこうかい)を設立して、同17(1884)年
に再興される閑谷黌の初代黌長となる。

明治23(1890)年第1回及び第2回衆議院議員選挙に当選するが、その後は閑谷学の経営
に専念する。

一方、士族授産のため微力社を設立するなど、旧岡山藩士族の中心的存在として、政治・教育界
に君臨する。同37(1904)年閑谷で自殺。

桜山に閑谷住民一同が建てた薇山西先生追慕之碑ー昭和2(1927)年ー資料館玄関前に教え子
たちが建てた薇山西先生碑ー大正14(1925)年ーがあり、墓所は墜道を抜けた西谷にある。
(現地案内板)