明和7(1770)年現吉永町北方の名主の次男に生れる。閑谷学校で有吉以顕から臓器の指導を受け、江戸に出て大学頭林述斎に師事ののち帰郷、北方村の名主となる。文化10(1813)年閑谷学校教授に任用され、閑谷に移住し、教育と学校経営に専念。「閑谷学図」を作成したり、茶室黄葉亭を建てる。

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名称  武元君立(たけもと くんりゅう)(1770~1820)ー閑谷学校ゆかりの人
役職  江戸後期の閑谷学校教授 農民学者
略歴 明和7(1770)年現吉永町北方の名主の次男に生れる。

字(あざな)は君立。高林・北林と号す。武元登々庵(とうとうあん)の弟。

閑谷学校に学び有吉以顕(ありよしいけん)(臓器ーぞうき)の指導を受ける。

在学中から地元の天神講の講釈人として活躍する。

江戸へ出て大学頭林述斎(はやしじゅっさい)に師事ののち帰郷、北方村の名主となる。

その農業経験と体得した学問により、藩財政の困窮、農民疲弊の原因と打開策を論じた
「勧農策」を著わす。

文化10(1813)年閑谷学校教授に任用され、閑谷に移住し、教育と学校経営に専念。

来訪する文人墨客も多く、その応接用に、学校の由緒と配置を記した「閑谷学図」
(重要文化財)を作成したり、茶室黄葉亭(こうようてい)を建てる。

黄葉亭の名は頼春水(らいしゅんすい)による。

同14年世子池田斉輝の侍講と藩校の授読師に任ぜられるが、翌年斉輝が若死にしたため、
失望のあまり脱藩して京都に移る。

私塾高林社を営み、公卿・僧侶・医者の子弟を教育。

文政3(1820)年以前から執筆中の「史鑑」を完成し、帰郷の途中、現赤穂市折方の
門人宅で客死する。(現地案内板)