元和5(1619)年京都に生まれ、母方の熊沢守久の養子となる。中江藤樹に陽明学を学ぶ時期を挟んで、寛永11(1634)年以降二度、池田光政に仕え、経世済民思想の実現を目指すも家中の反感や幕府からの中傷により蕃山に隠退。その後、京都で名声を得るも幕府の忌避を受け茨城古河に軟禁、同地で没する。

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名称  熊沢蕃山 (1619~1691)ー閑谷学校ゆかりの人ー
役職  江戸前期の陽明学者 岡山藩番頭(ばんがしら)
略歴  元和5(1619)年野尻一利の子として京都に生まれ、母方の熊沢守久の養子となる。

寛永11(1634)年池田光政に仕えたが、4年後に辞す。郷里で学問を志し、中江藤樹に
陽明学を学ぶ。

正保2(1645)年再び光政に仕え、「世の中が栄え、庶民の暮らしが向上しなければ国は
繁栄しない。

領民への仁政こそ国の基本」という経世済民思想の実現を目指す。

光政の信任のもと知行三千石の番頭として、承応3(1654)年備前大洪水の際の飢民救済や
藩政改革に尽力するが、家中の反感や幕府からの中傷等により、明暦3(1657)年
現備前市蕃山(しげやま)に隠退する。

後京都に移り名声を得るものの幕府の忌避を受け、貞享4(1687)年現茨城県
古河(こが)市に軟禁され、同地で没す。

津田永忠とともに藩校や閑谷学校の創設・経営に尽力した泉仲愛(いずみちゅうあい)
(1623~1702)は実弟。(現地案内板)