乙子城跡ー北側よりー

乙子城跡

宇喜多直家が乙子山に構えた連郭式の小型山城。後に備前、美作一帯を統一した直家の最初の居城で、「国とり」はじまりの地といえる。乙子城は、当時の吉井川河口付近に位置し、邑久郡の穀倉地帯である千町平野の南側を画する山々の西端にある乙子山山頂にあった。北には西大寺の門前町など上道郡南東部を望み、また、南から西に広がる児島湾を隔てて児島郡の山々を遠望できた。

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名称  乙子城跡(おとごじょうあと)
所在地  〒704-8137 岡山市東区乙子143
TEL  ー
築城者  宇喜多直家
築城年  天文13(1544)年
様式  山城
天守閣  無し
所有者  個人
概要  かっての児島湾は広大で、後の新田開発によりその大半が干拓され、幸島新田、沖新田
などの美田にかえられた。

戦国時代後期に天神山城(佐伯町田上)を根拠地に備前国東販半を支配した浦上宗景は、
上道郡を領する松田氏(玉松城跡)、児島郡を領する細川氏、さらには、瀬戸内海の海賊
からの攻撃を防ぐため、天文13(1544)年、領地南西端に乙子城を築き、知行三百貫、
足軽三十人をつけて直家に守らせた。

邑久郡乙子城古図によると城は、本丸(頂上)と二の丸(乙子大明神境内)を構え、腰曲輪、
出曲輪が配されている。

郭は、ともに土段築城で、高石垣は認められない。本丸には当時の土塁の痕跡がみられる。

 宇喜多直家 国とり物語

「備前軍記」等の近世編纂物に描かれる直家は、享禄2年(1529)に宇喜多興家の嫡子
として生まれ、幼名を八郎、元服して三郎左衛門直家、後に和泉守と名乗る。

祖父能家は、天文3(1534)年に、砥石城(邑久町豊原)において、高取山城
(邑久町東谷)の島村豊後守(後の貫阿弥)の奇襲にあって自害し、このとき難を
逃れた興家、八郎の父子は、備前福岡(長船町福岡)の豪商阿部善定の元へ身を寄せた。

天文5(1536)年の興家病没後、八郎は、叔母のいた笠加村(邑久町)の尼寺で育てられ、
不遇の幼少期を過ごしたと伝えられている。

天文12(1543)年、八郎は、母の努力によって旧主浦上宗景に仕官し、翌年、元服して
三郎左衛門直家と名乗り、初陣以来の武功や祖父能家の旧功により、乙子城(岡山市乙子)
と三百貫の知行、足軽30人を給った。

天文18(1549)年、直家は、祖父能家ゆかりの砥石城を主命によって攻め、浮田大和を
討ち、その功績によって新庄山城跡(奈良部城ともいう、岡山市竹原)を預けられた。

永禄2(1559)年には、かねて謀反の風聞のあった亀山城(沼城ともいう、岡山市沼)の
中山信正、それに祖父の仇でもある島村豊後守を討ち、その所領の過半を加増され、
亀山城を居城とした。

以後、直家は浦上宗景の指図を待たず、周囲の周囲の諸城を攻め落とし、次第に主家を
凌駕するほどの権勢を備え、宗景と不和になっていった。

勢力拡大を続ける直家は、松山城(高梁市内山下)にあった備中の雄、三村家親と
抗争を構え、永禄9(1566)年、美作に進入した家親を計略により興禅寺
(久米南町下籾、現在廃寺)で殺害した。

翌年、親の復讐を誓う三村元親が備前に侵攻、二万の大軍を三手に分けて攻め入ったが、
直家は五千の少数で迎え撃った(明禅寺合戦)。

この合戦は直家にとって生涯で最も華々しい勝ち戦となり、備中勢の「明禅寺崩れ」
として長く人々に語り伝えられた。

元亀元(1570)年、直家は、岡山の金光宗高を自害させ城を奪い、岡山城
(現在の岡山城ではなく石山の地にあったという)を大改造し、天正元(1573)年には、
亀山城から移って、家臣や福岡、西大寺、児島等の商人を移住させ、城下町の礎を
築いた(岡山開府)。

そして、天正5(1577)年、浦上宗景を天神山城から追放し、ついに備前、美作一帯を
統一して戦国大名となった。

やがて、織田信長の中国路攻略の命を受けた羽柴秀吉が播磨に進出してくると、初め直家
は安芸に根拠地を持つ毛利氏とともに抵抗したが、天正7(1579)年には、織田氏と
和睦し毛利氏と対立した。

直家は、天正9(1581)年に病没(享年53歳)し、後世に烏城と呼ばれる天守閣
(戦災で焼失)を中心とした岡山城の築城は、豊臣政権下で五大老に列せられた嫡男の
秀家に委ねられることになる。(現地案内板)

交通  JR西大寺駅より牛窓行バス15分、神崎口下車、徒歩約10分、

岡山ブルーライン西大寺ICより車で約10分

駐車場  ー

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乙子大明神は、乙子城跡へ登る登山道の一つ。この神社は、乙子城二の丸跡に建てられている。

幸島新田(こうじましんでん)
岡山藩主池田光政(みつまさ)により計画され、その子綱政(つなまさ)の時代に、神崎新堀を水門(すいもん)湾まで延長し、その東西に開発された新田。
樋門改修の際、江戸時代の治水の歴史をものがたる神崎樋門石が、掘り出された。東側の樋門石には貞享4(1687)年、西側の樋門石には享保20(1735)年の年号が刻まれている。(岡山市てくてくロード案内板より)

前方は児島半島東端小串地区。手前は千町西川河口水門。

てくてくロード地図ー吉井川下流域ー

てくてくロード地図

てくてくロード
岡山市には、温暖な気候に育まれた自然が多く残り、吉備の国のもたらした古代の歴史的資源をはじめとする数々の歴史的、文化的遺産も多く、四季折々の風物も豊か。

しかし、車社会と呼ばれる今日では、歩くという健康的な活動から遠のき、これらの貴重な資源にふれる機会が減少、

ふるさと岡山をゆっくり歩き、身近な自然とのふれあいの環を提供するために展開しているのが「岡山市遊歩道ネットワーク」(てくてくロード)。(現地案内板を要約)

吉井川下流ルート、

総延長距離:約19.0km  総消費エネルギー:約620kcal。

吉井川下流ルート、

(1)西大寺観音院をはじめとする歴史・文化資源が多く存在する西大寺中心市街地、

(2)吉井川左岸河川敷に広がる雄大な自然景観を有する西大寺浜緑地、

(3)宇喜多直家ゆかりの乙子城跡、干拓の歴史を伝える幸島新田等。

半日あるいは1日でゆっくりまわれる距離の「おすすめルート」、もう少し歩いてみたい人のための「オプションルート」を設定。

ルートの中で急な坂道や階段などでゆっくりとマイペースで歩いていただきたい場所は地図の中で色を変えてお知らせ。一度にまわらず少しづつ分けてじっくりと見てまわる方法も。

この吉井川下流ルートの「おすすめルート」は神崎バス停を起点にする約4.0kmと、JR西大寺駅を起点にする約3.9km。所要時間はそれぞれ約半日、消費エネルギー約150kcal、約120kcalを想定。

*消費エネルギーは、体重60kgとした場合の目安。(現地案内板を要約)