寛永17(1640)年岡山藩士の三男として岡山に生れ、14歳の時、御側児小性として光政に仕えた後、光政、綱政の二代に渡って岡山藩の重臣として、干拓事業をはじめとする様々の土木事業を行なうと共に閑谷学校の創立、運営に力を注ぐ。

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名称  津田永忠(つだ ながただ)(1640~1707)ー閑谷学校ゆかりの人ー
役職  岡山藩学校奉行 郡代
略歴  寛永17(1640)年岡山藩士津田左源太貞永の三男として岡山に生れる。

承応2(1653)年14歳の時、御側児小性(おそばここしょう)として光政に仕える。

実務能力に非凡な才をもち、光政・綱政の二代藩主の信任を得て、大横目、学校奉行、
郡代と要職に就き、岡山藩政の確立に中心的役割を果たす。

土木巧者ともいわれ、多くの事業を担う。

主な事業は、和井谷墓所造営、石山仮学館・藩校・郡中手習所・閑谷学校の創設、新田
(倉田・幸島・沖)や田原用水・倉安川の開発、御後園(後楽園)・曹源寺・
吉備津彦神社 社殿の建設、港湾(牛窓・大多府島)の整備等々。

特に、閑谷学校の創設・経営は光政の遺志もあり最も情熱を注ぎ、三十年以上に渡り
関与し現在に残る施設とする。

郡代を退いた宝永元(1704)年以後、閑谷に移り学校経営に専念した。

宝永4(1707)年没。墓は現和気町奴久谷(ぬくだに)。(現地案内板)