勝山城跡ー別名高田城跡ー

勝山城跡

勝山城ー別名高田城ーは、神奈川県三浦半島を本拠地とする鎌倉時代の有力御家人三浦氏の末裔、三浦貞宗が如意山山頂に築城したのが始まりと言われている。戦国時代の激しい攻防の歴史を経て、江戸時代中期の明和元(1764)年三浦氏が三河国西尾から2万3千石の藩主となり、旧高田城跡に新しい城を築き「勝山城」と改めた。

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名称  勝山城跡ー別名高田城跡ー
所在地  真庭市勝山
TEL  真庭市産業政策課 0867-42-1033
築城者  三浦貞宗ー地頭職ー
築城年  嘉慶2(1388)年
洋式  山城
天守閣  無し
所有者  真庭市
概要  三の丸遺跡は、神奈川県三浦半島を本拠地とする鎌倉幕府の有力御家人三浦氏の
末裔(まつえい)が築城したといわれる高田城西麓の標高174mの段丘上に位置する。

高田城は標高320mの本丸と、260mの出丸からなり、当時の曲輪(くるわ)、掘り
切り、竪堀(たてぼり)などの遺構が残っている。

三浦氏については、足利尊氏が新田義貞・楠木正成らを討つべく九州から東上する
1336年、三浦高継(三浦介)に美作の新田勢を討つように命令し、高継は足利軍に
合流して、湊川の楠木勢と戦っていることから鎌倉時代終わりごろには高田城が築
かれていたと考えられる。

その後1360年、高田城は山名時氏(ときうじ)によって攻められており、同年三浦
貞宗が妙見宮に武運長久を願って鰐口(わにぐち)を奉納した。

その鰐口は江戸時代に本遺跡の近くで出土し、妙円寺に残されている。

貞宗以後8代目城主三浦貞連(さだつら)までは不明な点が多いが、1487年、貞連
が将軍義尚の六角氏討伐のため近江へ派遣されたことや笹向城(ささぶきじょう)を
攻撃したことから、高田城を拠点とした領地拡張が活発に行われたと思われる。

16世紀中頃から戦国大名の尼子氏・三村氏・毛利氏などからの攻撃に翻弄(ほんろう)
されながら、貞国(さだくに)・貞久(さだひさ)・貞勝(さだかつ)・貞盛
(さだもり)らが落城と復興を繰り返した。

1562年、三村氏に攻められた貞勝の妻「お福」は備前に逃れ、宇喜多直家に召し出
されて秀家を生むことになる。

1575年、宇喜多・毛利連合軍によって三浦貞広は敗れ、三浦家は滅亡し240余年の
歴史を閉じた。

そのあとは毛利氏家臣楢崎元兼(ならさきもとかね)が城主となり、1584年、宇喜多
氏が領して牧氏が城番をした。

宇喜多氏が関ヶ原の戦いで敗れた後、小早川秀秋の家臣が守り1603年、森忠政が
美作国を領有し、各務(かがみ)氏・大塚氏が城番となった。

本遺跡を調査した結果、室町時代前期から江戸時代初期にわたる建物や遺物が出土した。

その中には大型の掘立柱(ほったてばしら)建物や瓦葺の建物・茶の湯にかかわる
天目茶碗・輸入された中国製の陶磁器・武具・碁石、鉄漿付皿などの文化程度の高い
武士の生活が営まれたと考えられ、15世紀の三浦氏から継続して、17世紀初頭の森氏
の城番までの館跡の一部と推定される。

平成15年3月、本遺跡が勝山にとって貴重な歴史的価値があると判断して、現状に近い
形で保存することにな、平成16年11月に保存整備が完成した。

真庭市教育委員会(現地案内板)

交通  JR姫新線中国勝山駅より徒歩約20分、

中国自動車道落合ICより車約20分、

米子自動車道久世ICより車約20分

駐車場  普通車10台

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