栗村神社
このお宮の縁起口碑によれば、当社は中山七十二社の末社の一つであり妹尾叔奈麻呂の新居跡である。叔奈麻呂は吉備津彦の軍に従い早島の海賊を三嶋部の大依別(おおよりわけ)と部下の足速男(あしはやお)等と謀って賊軍を打ち果す等の功績ありし人であり、その功により中山七十二社の一つに加えられた。
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妹尾小学校の北西に位置する栗村神社境内に、学問の神として全国的に崇敬厚い菅原道真公の御分霊を大宰府天満宮より拝領して奉斉している。
本殿は三間二間の入母屋造社殿で、内部は宮殿を安置し、その左右に小部屋を造り髄神を祀る。建立の時期は宮殿内部の扉銘板から元禄15(1708)年とみられる。
この付近は瀬戸の穴海に浮かぶ早島の南東端に近い所で、海辺は塩水が湧き飲用には使えなかった。この井戸は山側にあったため良水が湧き共同井戸として地区の人々に使われてきた。
名称 | 栗村神社(くりむらじんじゃ)ー通称和田の宮ー |
所在地 | 〒701-0205 岡山市南区妹尾1513 |
TEL | ー |
祭神 | 妹尾叔奈麻呂命(せのおすくなまろのみこと) |
相殿 | 竹丘比売命(たけすなひめのみこと)-叔奈麻呂の妻ー、
瀬佐喜和気(せさきわけ)-叔奈麻呂の子ー、 瀬与理比古(せよりひこ)-叔奈麻呂の子ー |
随神門 | 両脇に各々一人の武士の神像があるが氏名は不詳 |
本殿 | 岡山市指定重要文化財 栗村神社本殿 平成19年8月27日指定 |
概要 | 凱旋された翌日五十狭芹彦命(いつはぜせりひこのみこと)ー吉備津彦の御子ー が叔奈麻呂の小岬の和田の家におはいりになった時、その妻竹丘比売(たけすなひめ) の子の瀬佐喜和気瀬与理比古等が料理人になって命を供応した・・・言々。妹尾町誌によると栗村神社の周辺に関する左記ー下記ーの文献がある。 |
前略・・・小さな石の鏃(やじり)も発見されている。
鏃のあることは弓を使いだした証拠である。 同じ石器時代でも縄文時代と呼ばれる頃・・・今から二千年程前から確実に使用され 和田の宮の北東の畑の中央部分には百米に及ぶ貝塚がある・・・鎌倉期の土鍋椀などの 恐らく今から一~二万年前に僅かながら人が住んでいた・・・夥(おびただ)しい貝や 和田の宮の前の道路から50㎝ほどの小さな貝塚が発見されている・・・。 不明であるが中世期の土器片も包含している等々・・・後略す。 以下下表の記を参考⇒ 現地案内板より |
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交通 | JR瀬戸大橋線妹尾駅より徒歩約15分、
早島ICより車で約15分 |
駐車場 | 有り |
記
さだかでないが創建 神社庁誌に修復した記録がある。 | |||||
紀元 | 歴代天皇 | 尊称 | 代 | 年号 | 主要事項 |
979年 | 円融 | 守平 | 64代 | 天元2年 | 平安時代 関白 藤原頼忠(北朝) |
1392年 | 後小松 | 幹仁 | 100代 | 明徳3年 | 南北朝合併 |
1402年 | 後小松 | 幹仁 | 100代 | 応永 年 | この頃四国霊場八十八ヶ所定まる |
1573年 | 後奈良 | 和仁 | 105代 | 天正 年 | 室町幕府滅亡 |
1665 | 霊元 | 識仁 | 112代 | 寛文5年 | 幕府諸社禰宜神主法度を発布 |
以後不明であるが小修理は行なったものと推察せられる |
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