猿掛城跡
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猿掛城は真備町妹(せ)と矢掛町横谷(よこだに)にまたがる中世以来の山城である。猿掛城築城のはじまりは東国の武将・庄太郎家長(しょうたろういえなが)がこの地に地頭として赴任した際に当初、幸山城(こうざんじょう)(山手村所在)へ入ったが、防禦(ぼうぎょ)に不便として、元久(げんきゅう)2年(1205年)ごろ猿掛山へ新城を築いて移ったことによる。
猿掛城は庄氏(しょうし)が366年間にわたり備中支配の拠点として利用した後、天正3年(1575年)に毛利元清(もうりもときよ)が五千貫の領主として入城した。
また、この城は天正10年(1582年)の高松城攻めの際に毛利輝元(もうりてるもと)の本陣となったことでも有名である。関ヶ原の戦いで西軍が敗れたことにより、元清のあとを継承した毛利秀元(ひでもと)が長府へ帰った後、慶長9年(1604年)、猿掛城に花房志摩守正成(はなふさしまのかみまさなり)が五千石で入城したが、元和元年(1615年)の一国一城(いっこくいちじょうれい)で廃城となり、元久以来の名城も410年間で終局を迎えたといわれている。 矢掛町教育委員会 猿掛城跡へ登る会実行委員会(現地案内板)
福頼橋より猿掛城跡を望む(上の写真)
一番高いところに本丸から六の丸まで右から左に向かって並んでいる。左側の一段低いところが大夫丸(たゆうまる)。前の川は小田川。
本丸横の土塁
本丸の直ぐ横に土塁があり、その土塁の外は堀切となっている。
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寺丸(てらまる)の由来
延徳(えんとく)4年(1492年)、守護細川勝久(ほそかわかつひさ)が猿掛城を急襲した際、城主庄元資(しょうもとすけ)はかろうじて退避したが、永く庄氏を支援していた香西五郎右衛門(かさいごろうえもん)一統は孤軍奮闘したすえ、城中にて切腹して果ててしまった。庄元資は香西五郎右衛門一統の功績を称え、その慰霊のためにこの寺丸を築き、位牌堂を建てて冥福を祈った。寺丸には今でも柱礎石、石垣基礎が残っている。のち、庄氏は永正(えいしょう)5年(1508年)に山麓の椿原に洞松寺(どうしょうじ)の末寺・見性寺(けんしょうじ)を建立し、寺丸の位牌を移してまつり、永く供養を怠らなかったという。 矢掛町教育委員会 猿掛城跡へ登る会実行委員会(現地案内板より)
大夫丸(たゆうまる)の由来
天文2年(1533年)、猿掛城主の庄為資(ためすけ)は松山城へ移り、備中半国の領主として、勢威隆盛を極めた。その際、為資は一族の庄実近(さねちか)を猿掛城の城代として置き、これを守らせた。天文22年(1553年)、毛利元春の援助を受けた三村元親(もとちか)軍と庄為資軍が猿掛城のふもと、現在の横谷(よこたに)、東三成(みなり)で激突し、大合戦となった(猿掛合戦)。しかし毛利元春の調停により、庄と三村は講和し、翌天文23年(1554年)三村家親(いえちか)の長男の三村元祐(もとすけ)が庄為資の養子となった。三村元祐が猿掛城主として入城したので、城代の庄実近は城の北側の郭へ退隠し、この郭を大夫丸と公称したといわれている。 矢掛町教育委員会 猿掛城跡へ登る会実行委員会(現地案内板より)
猿掛砲台跡
これは延長16mの土塁である。この土塁は慶応3年(1867年)に岡山藩の要請に基づき丹波国(たんばのくに)亀山藩主松平紀伊守(まつだいらきいのかみ)が築造したものである。岡山藩は松山藩の動向に警戒し、富山へ築いた富(とみ)砲台と亀山藩の猿掛砲台により守備を固めたが、これらの砲台は一弾の発砲もなくその役を終え、現在に至っている。 矢掛町教育委員会 猿掛城跡へ登る会実行委員会(現地案内板より)
猿掛口
猿掛口は、琴弾岩から500m程小田川に沿って西に行ったところ。道端左に猿掛城跡案内図-2の案内板が見える。この案内板から、左に見える道を100メートル程小田川沿いに西に行くと写真左のような地蔵尊がある。この地蔵尊の少し西を案内板に従って左に登って行けば、大夫丸までは一本道で約20分。途中要所に案内板有り。
猿掛城跡案内図-2
この地図は、登り口(猿掛口)にあるのではなく琴弾岩側にあります。現在は上の図の橋はありません。もう少し東に新しい琴弾橋ができています。案内板-2の所をすぐ左に登ると別の山に登ってしまうので注意。案内板の前に普通車2台程度の駐車余地あり。