南山城跡発掘現場

南山城跡発掘現場

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南山城跡は、戦国時代(約440年前)に毛利軍が築いた城跡。
高梁川と小田川との合流点に位置、北方には中世の山陽道が通り、当時は高梁川が瀬戸内海へ流出する河口近くでもあったことから、陸、河川、海上交通の要衝に築かれた城であったと考えられている。

国土交通省による小田川合流点の付け替え工事に伴い、小田川の流れをスムーズにする為この南山城跡を削り取る必要があることから、岡山県古代吉備文化財センターによって発掘調査が行われている。

その説明会に参加した時に取材した内容です。

土坑群ー弥生時代ー

土坑群ー弥生時代ー

南山明地遺跡

小田川合流地点付替え事業における発掘調査で南山城跡西側の丘陵の南斜面で弥生時代中期の竪穴住居や土坑(大きな穴)が見つかると共に弥生土器や石器が出土。北風を防げる南斜面に弥生時代の集落が広がっていたことが推測される。

南山明地古墳群

南山明地古墳群

南山明地古墳群

南山城跡西側の尾根上に古墳時代の古墳3基ー南山明地2~4号墳ーが並んで築かれているのが見つかった。どの古墳にも周りに円形の溝が掘られており、4号墳では二つの埋葬施設が、2号墳、3号墳には一つの埋葬施設が見つかっている。

南山城の櫓台を東側(写真左)と西側(写真右)から見た所、右側の写真には、敵の侵入防止の為の急な崖(切岸)があるのが分かる。

切岸の他にも、攻めてくる敵に対し正面と側面から攻撃ができるように土塁を屈曲した横矢なども設けている。

南山城跡の発掘調査は、国土交通省の小田川合流点付け替え工事に伴い、流れをスムーズにする為に行われている。

上左の突出部上に南山城跡があるがこの突出部も発掘調査が終われば掘削工事により無くなってしまうのだろう。

上左は櫓台の虎口付近から見た土塁で、上右の様に櫓台と土塁は間に曲輪を挟んで並んで設けられている。

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横矢は、正面と側面から攻撃できるように工夫して造った防衛上の構造。

その構造ゆえに下からの攻撃が如何に難しいかについては、上右の写真からも容易に想像できよう。このように高い急斜面(ほとんど垂直に近い)を上からの攻撃を避けながらよじ登ることが出来るだろうか。

畝状竪堀群とは、山の斜面に沿っていくつもの竪堀を設けて、間に畝状の障壁をつくり、敵が横に移動できないようにした構造物。

登ってくる敵は上からの攻撃に対して横方向に避けることが出来ないため、先頭の敵から順次、確実に攻撃することが出来る。毛利の山城にはこのような構造物が多くみられるとの説明があった。

虎口は、城や曲輪への出入り口。

曲輪とは、山城や砦内の山頂、尾根や斜面を平坦にした所をいい、戦いに備えて、住居や蔵、櫓を造ったり、人が集合・活動できるように、あるいは人や物資の移動を容易にする為に設けている。

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左の写真の虎口を上がった右側に櫓台がある。右の写真は、その櫓台から眺めた景色で、曲輪を挟んで向かい側には土塁が、曲輪の先の凹んだ所には別の虎口も見える。この曲輪が曲がりこんだ土塁の向こう側には、広い曲輪(一つ上の右側の写真)が設けられている。

 

櫓台の手前の切岸と櫓台の西側に設けられた竪堀。

櫓台の西方に設けられた堀切。深く掘られており、敵は容易に櫓台に到達することはできない。

南山城跡から見た北方方面の風景。北方から流下してくる高梁川と真備(右岸)、清音(左岸)方面を見渡すことができる。戦国時代、右の山の向こう付近には、高梁川を挟んでこの平野を横切る旧山陽道が東西に延びていた。

高梁川には左から小田川が流下合流しており、上の説明にある旧山陽道の位置と併せて、この城の位置が当時交通の要衝であったことをうかがい知ることが出来る。

現在、小田川はこの南山城の東にある酒津八幡山(左上の写真で堤防がぶつかっている山)の北側を抜けて高梁川と合流しているが、戦国末期のこの城があった頃は、この南山城の北側で高梁川と合流、高梁川は酒津八幡山を挟んで東西の二つに分かれて流下(右上の写真で正面の山が酒津八幡山)酒津八幡山の南で合流、当時は近くまで迫っていた瀬戸内海に注いでいた。

南山城跡、発掘調査の為の現場事務所は、この明智大明神の手前に設けられており、南山城跡へはこの明智大明神の横を通って登るようになっている。

国土交通省による小田川と高梁川合流点の付け替え工事の概要⇒小田川合流点付替え事業~高梁川・小田川の河川を洪水から守る~国土交通省中国地方整備局岡山河川事務所ホームページ

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南山城跡案内図

南山城跡案内図

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