常山城跡

常山城跡

常山城跡

岡山平野南部に、何処からでも見える富士山の形をした山で、児島富士として親しまれている。戦国時代の天正3(1575)年に備中松山城主、三村氏一族の上野隆徳軍と安芸の毛利勢がこの地で激突、隆徳の妻鶴姫が侍女30名を率いて毛利軍に突撃し女軍哀史が生まれたことで有名。山頂近くには女軍の墓が並んでいる。⇒岡山県内の人気観光地「倉敷美観地区」・「蒜山高原」を訪れる人も多い。

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名称 常山城跡 玉野市指定ー昭和39年、灘崎町(現岡山市)指定ー昭和60年
所在地 玉野市字藤木、岡山市灘崎町迫川
TEL 0863-33-5005 玉野市商工観光課
築城者 不明
築城年 文明年間(1469年~1487年)
様式 山城
天守閣
の状況
無し
概要 玉野市指定史跡 常山城跡 指定 昭和39年6月25日、

所在地 玉野市字藤木・用吉・木目及び灘崎町(現岡山市)迫川、

「児島富士」と呼ばれるこの常山(標高307m)の山頂一帯に、「常山城跡」はあります。

城郭は山頂の本丸を中心に合計14の曲輪で構成される、「連郭式山城」です。

築城の時期は戦国時代の初めと推定され、上野氏・戸川氏・伊岐氏等の城主が知られて
います。

女軍の戦いは1575年(天正3)年のことで、この戦いで当時の城主上野氏は毛利氏によって
滅ぼされました。

その後、常山城は毛利氏の支配下に置かれましたが、毛利氏の築城技術と言われる竪掘や
堀切の遺構は発見されていません。

恐らく毛利氏以後城主となった宇喜多氏家老の戸川氏の手により、現存する常山城が整備
されたと思われます。

常山城は児島半島が島であった時期には、備前本土との海峡を抑える軍事上の重要な拠点
でしたが、やがて瀬戸内海の航路が重視されるようになり、1603(慶長8)年に
廃城となりました。

城は解体され、廃材の一部は新たな監視の拠点となった下津井城の修理に利用されたと
伝えられています。

平成6年1月29日 玉野市教育委員会(現地案内板より)
岡山市内のどこからでも望むことが出来る常山。

逆に考えれば、岡山市内の殆んどの所を眺めることが出来るのではと考え、登ったのだが、
残念ながら霞んでおりあまり眺望は良くなかった。

また霞の無いときに登ろうと思っている。

車でも頂上近くまで登れる。直道を登るのがしんどい場合には、少し長くなるが車道を
登るのも一法。

車はあまり通らないので気にならない。

常山城登山口側駐車場から車道を通って頂上近くの駐車場までの距離 約3.9km、
友林堂までの距離 約0.1km

サクラの見所としても知られている。

ソメイヨシノ他500本、花季ー4月上旬~中旬、

交通 JR宇野線常山駅より車で約10分、または徒歩約60分、

瀬戸中央自動車道水島ICより車で約20分

駐車場 普通車20台

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常山城小史

年号 城主 事項
1492  明応元  上野土佐守・
同肥前守 
上野土佐守・肥前守、常山城に拠って児島の支配を始める。
1554 天文23  上野隆徳 この頃上野隆徳と備中の三村家親の娘鶴姫が結婚。
1571 元亀2 毛利氏が児島を勢力下に置く。
1572 元亀3 宇喜多直家毛利方となる。
1574 天正2 備中松山城主(高梁市)三村元親 織田信長方となり、11月より
備中兵乱始まる。
1575 天正3 6月2日、三村元親自刃。
6月7日、上野隆徳ら自刃。常山城落城。
毛利城番 毛利氏より山本四郎左衛門・渡辺伊豆・冷泉元満ら常山城番。
1577 天正5 戸川秀安 この頃、戸川秀安 常山城主となる。
1579 天正7 宇喜多氏、織田方に付き備中辛川で合戦起こる。
1581 天正9 2月、毛利元清 麦飯山城に布陣。
宇喜多基家・戸川秀安ら八浜両児山城に出陣。八浜合戦で
宇喜多基家戦死。
1582 天正10 5月、備中高松城の水攻め。
6月、本能寺の変。
1585 天正13 児島全部が宇喜多領となる。
1597 慶長2 9月6日、戸川秀安卒(60歳)
1598 慶長3 戸川達安 常山城主 戸川達安ら、宇喜多秀家と対立。
1600 慶長5 1月、徳川家康、戸川達安らを預かる。
9月、関ヶ原の戦い。
伊岐真利 10月、小早川秀詮(秋)岡山城主となり、金川・虎倉・常山の
三城のみを残して他を破却する。
1603 慶長8 池田忠継、岡山城主となり、常山城廃城と決定(現地案内板より)
常山城跡案内図

常山城跡案内図(現地案内板)

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