史跡関白屋敷跡

史跡関白屋敷跡

史跡関白屋敷跡

平安末期に平清盛により備前に流された関白藤原基房の配所跡。基房は関白藤原忠通の二男として生れ、承安2(1172)年関白となるも、兄基実の遺領相続をめぐって清盛と対立、後白河法皇の後楯を得て反平家政策をとった為、清盛の怒りをかい治承3(1176)年に湯迫に流された。

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名称  史跡関白屋敷跡
所在地  〒703-8202 岡山市中区湯迫
TEL  086-803-1611 岡山市教育委員会文化財課
概要  この地は平安時代末期に平清盛によって備前に流された関白藤原基房の配所跡と
伝えられている。基房は関白藤原忠通の二男として天養元(1144)年に生れ松殿菩提院などと号して
長寛2(1164)年左大臣、仁安元(1166)年摂政、承安2(1172)年関白となった。

しかし、兄基実の遺領相続をめぐって清盛と対立し、関白に進んでからは後白河法皇
の後楯をえて反平家政策をとったが清盛の怒りをかって関白職を解任され
治承3(1176)年には湯迫に流された。

備前における基房の配所がこの地であったことは古く江戸中期に編纂された「和気絹」
にも記されている。

またこの地に建つ(関白松公讁居遺基碑)は明和3(1766)年岡山藩主池田継政が建立
したものである。(現地案内板)

歌碑 松殿と桜姫の由来

松殿とは常に松を愛し住み給う御館の名なり依って松殿関白と申せしとかや関白基房公
は寛人大度上を敬い下を憐れみ給う君なりし(湯迫山浄土寺 略縁起より)

桜姫は岡山市八幡松澤家に伝わる口碑によれば基房公謫居中の治承4年(280年)春
のこと関白屋敷で桜の宴が催された折、地方豪族の一女の舞と歌が基房公の
眼にとまり賞讃され桜花に因み「桜姫」の称を賜ったという。

時にその一女は13歳であった。

この年基房公は京都に召還されたが、後に京よりの迎えに応じて一女は単身基房公の許
に赴いた。

同家所伝の系譜によればその子孫が松澤家の台祖大内蔵人少将藤原元次であるという。
(1982年刊 永平寺史 口碑紹介記事による)

源平争乱のさ中に上京した姫は16歳にて源義仲に嫁し義仲没後出生した鞠子
(鎌倉二代将軍頼家の妻)の母となる。

また後年は松殿の許にて元次の母として静かな一生を終えたと推測される。

文献には松姫、従三位藤原伊子などの別名があり道元禅師の生母であるとする説もあるが
今後更に研究を要するところである。

松殿基房公は有職故実の学識者の長老として寛喜2年(1230年)12月28日宇治小幡松殿
山荘にて87歳の天寿を全うした。(永平寺傘松誌掲載 国定美津子記より)

政変過渡期の乱世にあって松を愛し、人を愛し、常に真を尽くして行きぬいた基房公と
その人柄を尊敬し孝養をつくした桜姫をしのび、桜の宴より815年に当たり松公
謫居遺基碑に添えて歌碑建立す。

平成7年12月吉日 浄土寺当主 枝川円陽 松澤家当主 松澤俊雄(現地案内板)

交通 JR岡山駅より車で約25分、または四御神行バス30分、浄土寺前下車徒歩約3分、

山陽自動車道山陽ICより車で約15分

駐車場  ー

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