冠山城跡ー備中高松城水攻めー

冠山城跡ー備中高松城水攻めー

冠山城跡ー備中高松城水攻めー

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冠山城は、羽柴秀吉の備中高松城水攻めの時、毛利軍の「境目七城」の一つであった。時の城主は、林三郎左衛門重真、妻は清水宗治の娘。

秀吉は、まず宇喜多忠家軍に攻めさせるが強い反撃にあい撤退。次に、加藤清正が忍者を使って城内に放火ー城内より出火したという説もあるー城内の混乱に乗じて秀吉勢が突入し城は陥落。城主は自決し家来は自刃或は討死したとされている。

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、この冠山城攻めが官兵衛の長男「黒田長政」の初陣であったと放送された。

冠山ー北方よりー

冠山ー北方よりー

北側から見た冠山

前後どちらから見ても優美な冠の形をした山である。

冠山ー足守八幡宮よりー

冠山ー足守八幡宮よりー

冠山合戦を偲ぶ

天正10年4月17日冠山城は、織田軍二万、宇喜多勢一万に囲まれ、下足守の山や谷は陣場で埋まった。守りは、城主林三郎左衛門、祢屋七郎兵衛、松田左衛門尉、鳥越左兵衛、三村三郎兵衛、竹井将監、舟木興五郎、難波惣四郎、岩田多郎兵衛、
権寂和尚、祢屋興七郎、佐野和泉守、守屋真之丞、祢屋孫一郎、庄九郎、秋山新四郎など三百騎、総勢三千六百人で、羽柴秀吉の旗本杉原七郎左衛門、宇喜多忠家らと戦った。

城内より打ち出す銃火ははげしく、また城兵には豪の者多くめざましい働きにより、寄せ手の犠牲は大きく、一時攻めあぐんだ。四月二十五日不幸にして城内より出火し、火は燃え広がり城中大混乱となった。城主林三郎左衛門は最早これまでと城兵に別れを告げ自決した。

竹井将監、鳥越左兵衛、秋山新四郎、舟木興五郎、難波惣四郎、権寂和尚など将兵一三十九人は自刃或いは壮烈な討死を遂げた。加藤清正一番乗りの功名話、荒武者竹井将監が加藤清正と激闘ののち戦死したことなど激戦の状況が戦史に詳しく伝えられている。

小山ながら難攻の冠山城も遂に落城した。林三郎左衛門は行年五十一才、備中の国を半国与えようという羽柴秀吉の誘いをも断り、毛利並びに小早川隆景に義を貫いた。武士道に徹した冠山の城主及び将兵を心から称えたい。

昭和58年8月11日吉日 冠山城址四百年記念事業奉賛会(現地案内板)

冠山合戦戦死将兵慰霊碑

冠山合戦戦死将兵慰霊碑

冠山合戦戦死将兵慰霊碑

天正十年四月二十五日落城

冠山山頂本丸跡

冠山山頂本丸跡

冠山山頂本丸跡

冠山合戦戦死将兵慰霊碑に並んで石碑が建っている。説明が有れば良いのだが。

冠山城跡登山口

冠山城跡登山口

冠山城跡登山口

国道180号線⇒足守方面へ通じる国道429号線を右折、岡山空港方面へ行く道路脇、冠山の南東にある。すぐ近くには、足守一里塚遺跡や葦守八幡宮鳥居が。

冠山城跡登山道

冠山城跡登山道

冠山城跡登山道

手前から、三の丸跡、大手門跡、二の丸跡の表示。

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冠山城三の丸跡

冠山城三の丸跡

冠山城二の丸跡

冠山城二の丸跡

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