太閤岩ー備中高松城水攻めー
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「太閤岩」の由来について
この大岩は、天正10年(1582年)に羽柴(豊臣)秀吉が織田信長の命により、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を攻めた時の、秀吉ゆかりの伝説の地である。
備中高松城は、東・西・北の三方が山に囲まれた盆地の平地にあるが、周囲に湿地や水濠が取巻いて容易に近寄り難く、三万ともいわれる秀吉の大軍をもってしても、容易に攻め落とせなかった。
そこで、秀吉はその地形を逆手に取り、4月下旬から5月にかけての大雨を味方に、堤防を築いて城の周囲に水を溜めて城を孤立させる「水攻め」という奇策に打って出た。
その時、秀吉は、龍王山から石井山に本陣を移したが、付近にあるこの大岩が着目され、作戦上の目標物として活用したのではないかと言われている。
秀吉は備中高松城を開城させたのを皮切りに、天下人の途を歩み、やがて太閤と呼ばれるようになった。
「太閤」の名がつく秀吉ゆかりの場所は全国各地にあるが、この大岩も里人によって「太閤岩」としてその名が伝えられてきたのであろう。(現地案内板)
太閤岩登山口(寺宝院裏)からここ太閤岩まで約800m、羽柴秀吉本陣跡からは約450m.。