境目七城(備中七城)ー備中高松城水攻めー

備中高松城跡備中ー境目七城ー

備中高松城跡ー境目七城ー

「境目七城」は別名「備中七城」とも呼ばれ、中国地方の雄毛利氏が織田軍との戦いに備え整備した防衛ラインで、南から松島城・庭瀬城・日幡城・加茂城・高松城・冠山城・宮路山城の七つの城を併せて名付けられた。⇒ 備中高松城水攻め

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松島城跡ー備中高松城水攻めー

松島城跡ー備中高松城水攻めー

松島城跡

松島城は備中高松城水攻め時における毛利軍「境目七城」の一つであったが高松城からは遠く水攻めの時は、秀吉軍に攻撃される事無く織田方と毛利方の和睦となった。現在、川崎医療短期大学の敷地となっているあたりが松島城跡とされている。

庭瀬城跡

庭瀬城跡

庭瀬城跡

庭瀬城は室町時代の末頃に備中松山の三村元親が、備前宇喜多氏の侵攻に対する固めとして築いた城であるが、江戸時代の慶長7(1602)年には、宇喜多の重臣戸川達安が入城し城を拡張して城下町を整備した。

日幡城跡ー高松城水攻めー

日幡城跡ー高松城水攻めー

日幡城跡

日幡城は、羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際、中国地方の雄毛利氏が織田軍との戦いに備え整備した防衛ライン「備中七城」(庭瀬城・松島城・日幡城・加茂城・高松城・冠山城・宮路山城)の一つ。

加茂城跡

加茂城跡

加茂城跡

加茂城は天正10(1582)年の羽柴秀吉の備中高松城水攻めに際し毛利方が備中南東部の国境沿いに備えた「境目七城」のひとつ。桂広繁・上山元忠・生石治家が立て籠るも秀吉軍の攻撃にあって城中で内紛が起き、落城。

備中高松城本丸跡

備中高松城本丸跡

備中高松城跡

備中高松城は、備前国に通じる平野の中心、松山往来沿いの要衝の地にあり、天正10(1582)年、中国の役の主戦場となった城跡で、羽柴秀吉により水攻めをされ、城主清水宗治公が家来達の助命を願って切腹した城として有名である。

冠山城跡

冠山城跡

冠山城跡

冠山城は羽柴秀吉の備中高松城水攻め時、毛利軍の「境目七城」の一つであった。時の城主は、林三郎左衛門重真、妻は清水宗治の娘。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、この冠山城攻めが官兵衛の長男「黒田長政」の初陣であったと放送された。

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備中宮路山城跡ー備中高松城水攻めー

備中宮路山城跡ー備中高松城水攻めー

備中宮路山城跡

備中宮路山城は備中高松城水攻めの際毛利軍の「境目七城」の内の一つで最北に位置。黒田官兵衛らが降伏を呼びかけるも小早川隆景家臣で城将の乃美元信は応じなかった。隣冠城の陥落後宇喜多家家臣の信原氏が開城を勧めついに開城。

 

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